釈迦十大弟子B

2017年05月04日

引き続き、お釈迦様の十大弟子のお話しを書きます。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

富楼那
プルナ、フルナあるいはプンナとも呼ばれます。
富楼那というお弟子は複数人いたようですので、弥多羅尼という女性の子である富楼那という意味で、富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)と書かれる事も多いかと思います。
日本での呼び方は「ふるな」が一般的かと思います。
出身も複数の説がありますので割愛しますが、お釈迦様と同い年であると言われており、十大弟子の中では一番早く弟子となったとも言われております。
柔和であり、弁舌に優れ、どんな人にも解りやすい説法をすると言う事で「説法第一」とされております。
阿難陀からも慕われ、また敬われていたとの事です。
晩年に故郷に赴いての説法をお釈迦様に願い出た際には、迫害や殺される覚悟をして尚説法に赴くつもりである事を宣言し、お釈迦様はその覚悟を褒め認めました。
余談ですが、迫害などがあろうとも耐え忍んで説法に赴き教化すると言うのは、富楼那に限らず多くの弟子達が普通に行なっておりました。と言いますか、敢えてそういう所に赴いている弟子が多いです。


迦旃延
カッチャーナ、もしくはカッチャヤーナと呼ばれます。
日本での呼び方は「かせんねん」が一般的かと思います。
出身も複数の説がありますが、その一つは生まれたばかりのお釈迦様(ゴウタマ・シッダルタ太子)がいずれ仏陀となるであろうと予言をしたアシタ仙人の元弟子であり、非常に聡明ではありましたが難解な偈文(教え)の意味が解読できず、お釈迦様に教えを請うた事がきっかけで弟子になったと言われています。ただ、弟子になった時期ははっきりと分かってはいないようです。
一度聞いた教えは忘れず理解できたと言われるほど聡明だったそうで、前述の富楼那とは少し違って哲学的な議論を得意としていたので「論議第一」と言われております。
(言い争うような議論の事ではありません、念の為)
故郷の王様から、お釈迦様に直に説法を聞きたいという依頼を受けましたが、お釈迦様から特に許されて自身が帰郷して布教に努めました。また、周りの王族と彼らの治める地にいる人々にも教えを説いて回りました。
更にはお釈迦様が入滅された後にも一心に布教に努め、迦旃延の布教がインドに仏教が大きく広がった要因であるとも言われております。

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釈迦十大弟子A

2017年04月23日

引き続き、お釈迦様の十大弟子のお話しを書きます。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

摩訶迦葉
大迦葉とも迦葉とも書きます。
マハーカッサパとかマハーカーシャパなどと呼びますが、日本での呼び方は「まかかしょう」が一般的です。
元々、幼い頃からバラモンとして修業をしていた方です。出家しようと考えていましたが家系の絶える事を恐れた親に結婚をさせられました。ですが、相手も出家しようと考えていた女性で、12年後に別れて二人とも出家します。
ちょうど同じ頃に出家したばかりのお釈迦様に出会い、どちらかが真理を悟ったら師弟関係となろうと約束しました。その後、真理を悟ったお釈迦様の噂を聞いて弟子となりました。
仏弟子の行なうべき十二の頭陀行(生活規則)を厳格に守ったため「頭陀第一」と言われております。
舎利弗と目連が亡くなってからは仏教教団の後継者と目されておりました。
お釈迦様の入滅後に教えが誤って伝わるのを懸念して最初の結集、つまり弟子達が集まり、それぞれが記憶しているお釈迦様の教えを確認し合い経典として編纂する集まりを開催しました。そのおかげで現代に仏教が伝わっているという大きな功績を為したわけです。
色々と伝説の多い方で、お釈迦様の弟子で従兄弟でもある阿難陀が連れ歩いていた弟子が気儘に還俗してしまった事を叱りつけたと言う事もあったそうです。
また、お釈迦様が入滅された時には弟子500人と説法の旅に出ており、彼が急ぎ駆けつけてお釈迦様の足に礼拝するまで火葬の薪に火が点かなかったそうです。


阿難陀
阿難とも書きます。アーナンダ、アナンと呼びます。日本でも「あなん」と呼ぶ事が多いです。
この記事にありますように施餓鬼会の起源となった事や、お釈迦様の従者として25年間付き従っていたので最も多く説法を聞いておりますので「多聞第一」とされております。
また非常に美男子であったために女性からよくモテた(決して靡かなかったそうです)と言う事でも有名です。
お釈迦様の養母(実母はすぐ亡くなっています)の出家の希望を叶えるため、お釈迦様を説得し女性の出家を認めさせたという話も有名です。
十大弟子の中では一番若くて悟りを得るのも遅かった為、他の弟子から窘められることも多くあったそうです。
お釈迦様が入滅された時にも未だ悟りを得られておりませんでしたが、その後修行に邁進し悟りを開く事が出来たと言われております。
前述した結集には摩訶迦葉から悟りを得ていないから参加を認めないと言われ、一心不乱に瞑想修行をし結集の日の朝に悟りを開いたとか、悟りは得ていないが一番多く説法を聞いて記憶していたので参加を認めざるを得なかったなど複数の説がありますが、結集には参加できてお釈迦様の説法を口述しました。
多くのお経の冒頭に「如是我聞」という言葉が良く出てきますが、これは「私はこう聞いた」という意味でこの場合の私と言うのは、多くが阿難陀の事であるとされております。
なお、お釈迦様の十大弟子の中では最も長生きで、120歳まで生きたと言われております。

posted by 未熟な修行者 at 22:28 | Comment(15) | TrackBack(0) | 日記

釈迦十大弟子@

2017年04月18日

お釈迦様の誕生日の記事を書きました。
ネタは幾つかあるのですがなかなか記事が書き進まないので(と言ったら失礼ですが)、お釈迦様の十大弟子のお話しを何回かに分けて書こうかと思います。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

まずは
舎利弗
サーリプッタとかシャーリプトラと呼ばれますが、日本での呼び方は「しゃりほつ」が一般的です。
他に有名な呼ばれ方もあり、般若心経の中に「舎利子」と出てくるのは舎利弗の事です。
それ以外のお経にも度々名前が出てまいります。
サンジャヤという懐疑論を唱える師の弟子でしたが、後述する目連と共にサンジャヤ師の信徒250人を引き連れてお釈迦様に弟子入りしました。
弟子入りしてすぐに悟りを開くことが出来たのと、お釈迦様の説法を大変良く理解したので「智慧第一」と言われております。その為、お釈迦様からの信頼も非常に篤く、お釈迦様の代わりに説法もしたそうです。
ただ、残念ながらお釈迦様よりも先に病で亡くなってしまいます。


目連
目犍連とも書きます。
モッガラーナとかマハーマゥドガリヤーヤナと呼ばれます。日本では「もくれん」もしくは「もっけんれん」が一般的です。
舎利弗と一緒にお釈迦様に弟子入りしました。そして7日後には悟りを開いたそうです。
神通力(いわゆる超能力)が使えたそうで「神通第一」と言われております。
この記事に書きましたように「お盆」の起源となったことで有名です。(「仏説盂蘭盆経」自体は後代に中国で作成された偽経と言われておりますが)
仏教教団を良く思わないバラモンに三度襲われ、三度目で亡くなっております。
神通力があるのに殺されたと言うのはおかしくないかと言われますが、この理由は後にお釈迦様が述べていて経典に書かれております。長くなりますので興味のある方は御自身で調べて下さい。(笑)


上記のお二方はお釈迦様よりも早く亡くなっているのですが、これはお釈迦様の説法が正しい事を示すために先に成仏したのだと言われます。
お釈迦様は「命あるものは必ず滅する」と説いておりますが、それでも大事な高弟を二人も先に失ってしまい非常に悲しまれたのではないかと思います。

posted by 未熟な修行者 at 00:00 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記