なぜ仏教に?(2)

2017年12月06日

続きです。

前回の記事は迷走しまくりの前置きだけでかなり長くなってしまいましたが、私がなぜ仏教を信仰するようになったのか不思議に思うらしく、その経緯も聞かれる事があります。正直、私の経緯などはどうでもいい話だと思うのですが。^^;

私の場合のきっかけは、たまに見えてしまったりとかで救いを求めてと言う気持ちだったのは事実です。

見えることがあるのが嫌、でも見えるだけで何も出来ないのが嫌、見えてしまいついてこられる事があるのが嫌、体調などに悪影響が出るのが嫌、そして見えるものを他人に言えば言ったで変わり者扱いされるのが嫌、場合によっては嘘つき呼ばわりされるのが嫌、最終的には見えてしまう自分自身が嫌、もう正直やさぐれました。(笑)
と言う訳で、信仰があれば少しは救われるかと思ったわけですね。

確か中学生の時だったと思います。
(過去の話ですので、現在でも当時とまったく同じように思っていると言う訳ではありません)
その頃の私が名前だけでも知っていた宗教としてはユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、あとは日本の神道くらいです。

ユダヤ教はユダヤ人だけの宗教のようで、ユダヤ人ではない私が信仰しても意味が無いかと。
実際はユダヤ教を信仰する者をユダヤ人と呼ぶ事もあり、人種的な意味だけでは無い事を当時は知りませんでした。

イスラム教は日本人向けとは言い難いらしいし、当時は日本語訳のクルアーン(当時はコーランと言っていた)も見た事が無いし、そもそもアラビア語じゃないと駄目らしいですし、モスクだって近所では見た事もありません。そんな状態ですから信仰しようとしても無理でしょう。

ヒンドゥー教も同様に聖典であるヴェーダの日本語訳のものなど当時は見た事すらありませんし、ヒンドゥーの寺院も近所にありません。こちらもそんな状態ですから信仰するのは無理です。あとカースト制度が根強く残っているのが気に食わなかったと言う理由もあります。^^;

仏教は、何だか古臭い感じがするし訳が分からないと当時は思ってました。(笑)

キリスト教は日本語訳の聖書もあるし、当時は身近にクリスチャンが非常に少なかったこともあって何か格好良さそうとも思いました。(笑)

日本の神道ですが、デフォルメされていない古事記や日本書紀を見れば神様の事はなんとなく分かるだろうけども、日本神話と言う物語の域でしか捉えられないんじゃないかと言う感覚でした。


まずは聖書を読んでみました。クリスチャンの方から分けて頂いた新約聖書ですので、きちんとしたものだと思います。
私個人の当時の受け止め方というだけであり、キリスト教を否定するわけではありませんので、誤解を招くようであれば申し訳ないのですが、読んでもどうもピンとこないのです。
読み物としては面白いと思ったのですが、奇跡は起こすわ、人々の原罪を背負って磔刑されるわ、復活するわで、あっさり言ってしまえば「キリストすげえ」みたいな事が延々と書いてあると感じたのです。もちろん素晴らしい教えも色々書いてはあります。

キリストはユダヤ教を公然と否定しています。ユダヤ教はユダヤ人と神との契約の宗教であり、ユダヤ人しか救わないとなっておりますし、それ以外にも様々な儀式や戒律がありますが、それらをわざわざ否定して貶める必要までは無いんじゃないかと思いました。その結果の磔刑で、人類の罪を背負い贖うためであったとか、神の言葉が真実と言う証明でもあるとか言われたりしますが、正直他にやりようは幾らでもあったじゃないかとも思ったりしたのです。

カトリック、プロテスタントのどちらも比較的近所に教会がありましたので何度か行ってみた事もあります。
神父さんも牧師さんも親切で、私の話しもきちんと聞いて頂けて、どういう教えなのかの説明もされました。
ですが、神を心から信じて、ただ神にすがる、よく言われるように「信じれば救われる」と言う話にしか思えませんでした。それも救われるのはこの世においてではないわけです。

また、私がそこで感じてしまったのは一神教の神の傲慢さです。
神の立場からなので当たり前でしょうけど、最終的には神の御心のままに、つまり上から目線だなと。^^;
つまり、信じなきゃ救わない、無信仰ならまだマシで、別の宗教を信じるものは悪魔とまで言いながら、その一方ではキリスト教では神は人を愛している、それは無償の愛だと言います。
信者しか救わないと言うのは見返り前提であり、無償の愛などと言ったものでは無いだろうと思いました。

例え信仰しても、霊が見えたりするのは神の意志、下手をすれば心から神を信じないから、と簡単に片付けられかねないと思いました。
あと悪口までは言ってませんでしたが、カトリックとプロテスタントって歴史の授業でルターの宗教改革として習ったように、実際あまり仲良くないんだな、でした。^^;

問題なのは救いというものがこの世での話ではなく死んだ後の話であるわけで、私としては今が問題なんだよ、と思ったわけです。
それでもミサに参加したり、聖書をもっと熟読すれば、何かあるのではと思いましたが、どうもしっくりと来ず、やはり違和感を感じます。

当時は他宗教を批判する聖職者も意外と多くおりました。公然と批判しないまでも暗に仄めかすような言葉を口にする方も普通におり、これが決定的でした。
キリスト教だけでなく一神教の宗教すべてにおいて感じる事なのですが、自分の信じる神は絶対的正義で、信じない者は悪という感覚、これがどうにも私には受け入れられませんでした。
この事を超極端な解釈にしてしまえば、悪は殺しても滅ぼしても構わず、それは罪になるどころか寧ろ神はその行為を祝福する、という思考にまで簡単に陥ってしまわないとは言えません。
もちろん、多くの宗教では殺人や争いを戒めていると思いますが、それすらも超えた神の意志と言い張ってしまえば、指導する立場にある者なら悪用しやすいわけです。
そんな極論は自身の宗教では説いていないと言うでしょうし原則的にはその通りなのでしょうが、現に宗教の絡んだ戦争や事件など歴史に多くの汚名を残しているという事実があるのです。

現世で救いが欲しいと言う超現実的な希望があったわけではありますが、そういう極端な解釈が可能なもので他者の思想を寛容に受け入れることは無いと言うところに違和感があったのです。

その当時から私自身は、人それぞれ考えが違うのは当たり前であり、それを一々区別して考えるのはバカらしい、と思っていたのですが、他者の思想を受け入れないような思想は私自身も受け入れたくない、と言うある意味でジレンマとも言える状態に陥って訳の分からない状況になりました。この説明分かりますかね。^^;
そういう訳で私が求めるものとは程遠く、キリスト教を素直に信じる気にはなれないと当時は思ったのでした。


心から信仰されている方にとっては暴言にしか見えないと思います。
40年近く昔、やさぐれて小生意気で理解力も足らない中学生の時に感じた事です。御容赦下さい。大変申し訳ございません。

現在ではキリスト教(に限らずですが)は、その教え自体は私の信仰とは違うからと言っても人様に迷惑をかけないのであれば何を信仰するのも自由と思っており、否定も批判もするつもりはありませんし、そのような立場にもありません。私の友人にも信者がおります。
何より、大半のキリスト教の信者の皆様がそうであるように教えに従って真面目に正しく生き、博愛的で他者にも優しい方が非常に多くいらっしゃることを存じておりますし、大変素晴らしい生き方だと思っております。


脱線&長文で未だ仏教の話が出てきておりませんね。(笑)
続きます。


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なぜ仏教に?(1)

2017年12月02日

「へ〜、仏教徒なんだ」
それに続けて変わってるね、と付きそうな感じですが、これよく言われます。(笑)
私と同年代の人でも、葬式と法事の時くらいしか仏教に触れない、そもそも何も信仰していないと言う人が大半です。

宗教を完全否定している国もありますし、特に信仰は無いという人も世界のどこにでもいますが、世界規模で見ると熱心かそうでないかは別としても何かしらの宗教を信仰している人の方が多く、信仰を持つ人を変わっていると思うような人の方が数が少ないのです。
逆に言うと信仰を持つ人を変わっている、と思う人こそ変わり者とみられる事もあります。
日本は信仰の自由がありながら、信仰を持っている人を変わっている、宗教を信じるなんて馬鹿らしい、と思ってしまう人の多い比較的珍しい国であると言えます。

元々、古代の日本人は「万物には神が宿る」として海や山や川、それに動物や植物、時には道端の石ころまで含めて、自然を敬って生活してきました。
更に言えば古来から信仰してきた八百万の神々に加えて、海外から入ってきた仏教やキリスト教なども自然に受け入れることが出来るという特有の柔軟さがありました。正月には初詣、お盆やお彼岸、宗教的と言うには程遠くただのお祭り騒ぎですがクリスマス、最近ではハロウィンなどまで受け入れる寛容さと言う下地があります。
それなのに現代では信仰を持つ日本人は少ないのは何故なのでしょうか。

神仏分離と国家神道と言う国が定めた信仰が理由でもあるでしょう。
これにより、信仰の自由を阻害するものでは無いと言いながら国家神道を国民に押し付け、他国との戦争になれば神(現人神=天皇)のおわす国が負けるわけが無いとまで言いながら敗戦しました。今まで神がどうのこうのと言っておきながら敗戦した途端に国が、天皇は神ではなく人であったと前言をあっさり翻し、国民は何よりも復興が大事として邁進する事になりました。
復興が大事なのは間違いありませんが、心の拠り所だったものを無視させたのです。この事が日本人が信仰に嫌気がさす理由の一因でもあるのではないかと思います。

宗教を大義名分に使った戦いの悲惨な歴史は学校で学びますが、それらの宗教の良い点、どういう教えかなどは詳しくは教えないわけです。宗教系の学校ではそうでもありませんが公立の学校では偏った思想になるのを防いだり、公平性を保つ目的の為にも教えることはありません。
教えられるのは宗教による悲惨な歴史ばかりですし、現在でも世界のどこかで宗教を大義名分にした争いがあるわけです。宗教自体が怪しげで争いを生むものでしかないと言う認識もあるのではないかと思います。

宗教が多額のお金をむしり取る事があるので嫌気がさしていると言う事もあるでしょう。
確かに現在は、昔からある宗教宗派であっても、信者からある程度のお金を頂かないとやっていけないところが非常に多いのです。
信仰する人自体が減ったことでお金が入らなくなり、その結果お金を頂く時には一人当たりから頂くお金、言い方はあれですが単価を高くせざるを得ないわけです。
それ故に益々、多額のお金がかかるという認識になり、更に信仰を持つ人が減ってしまうという悪循環も起こります。

訳の分からない新興宗教も多いと言う事もあるでしょう。
3年程前の統計だったと思いますが、新興宗教だけでなく昔からある宗教宗派も含めてですが、全ての宗教法人としての登録数は18万をゆうに超えていたと思います。
単立(特定の派に所属しない)の神社仏閣なども多くあるのですが、それを差し引いても異常な数であり、こんな国は日本くらいと言っても差し支えありません。
新興宗教と言うと、信者を騙してお金を巻き上げているというイメージをする方もいますし、新興宗教=カルト教団と見る方までいますし、実際にそういう所も多いのですが、そうでない所ももちろんあります。
ただ、やはり新興宗教絡みの事件も今までに何度も起きておりますので、宗教は怪しいものという認識が強くなってしまうのも不思議ではありません。

私自身は人がどんな宗教を信じるのも自由と思っていますし、無信仰であってもいいと思っているのは今迄に何度も書いております。
無信仰であっても初詣には出かけるという人は非常に多いと思います。信仰などではなく行事としてだと思います。
ただ、これは世界的に見たら非常に奇妙で不思議な光景であり、例えて言うなら年に一度だけ、クリスチャンでもないのに教会のミサに出かけたり、イスラム教徒でもないのにアッラーへの礼拝をしているようなものです。
こういった感覚は、身近に宗教施設が多くあり、信じていなくとも抵抗なく受け入れられる日本人特有の感覚かも知れません。宗教的下地と言ってもいいのかも知れません。
なので無信仰なのは勿体無いなと思う事も実はあります。(笑)


うわ、脱線しまくった前置きだけで終わってしまった。(笑)
続きます。

posted by 未熟な修行者 at 00:09 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

釈迦如来

2017年11月25日

仏様方の御紹介の第三弾です。
私は真言宗系ですので、真言宗での仏様のお話であり、目一杯の独断と偏見に満ちております。(笑)
また、御紹介する仏様の順序には特に意図はございません。
なお、他宗派での教えに異論を挟むものではございませんので御理解下さい。

仏教を語るに於いて釈迦如来様を欠かす事は出来ません。

日本での名前:「釈迦如来(しゃかにょらい)」
梵名:「シャーキャムニ」

言わずと知れた仏教の開祖です。
釈迦如来と紹介しましたが、釈迦牟尼如来、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼世尊、仏陀、世尊など様々な呼び方をされる事もあります。
梵名のシャーキャムニは尊称で、意味としては「シャーキャ族の聖者」になります。
人としての名前はゴータマ・シッダールタが一般的に知られています。

さくっと説明します。細かいところまで興味がある方は御釈迦様の生涯について書かれた本でも探して下さい。^^;

王族(実際は地方豪族とも言われます)の王子として生まれ、青年期まで何不自由なく育てられました。
ヤショーダラーを妃として迎え、ラーフラ(将来十大弟子の一人となった)という子ももうけました。
しかし、人間には生老病死という四苦がある事を知り出家します。29歳頃と言われています。

当時の思想家である高名な三人の師匠に次々と教えを請いましたが、どれも満足できるものではなく、その後の六年間は悟りを得ようと苦行に明け暮れました。
ある日の事、死の寸前までいくような苦行をしても悟りなど得られないと言う事に気づき苦行をやめます。
それから菩提樹の下に座って瞑想に入ります。
瞑想の間には様々な悪魔からの誘惑がありましたが、それを退け、遂に(法、真理の)悟りを得ました。35歳頃の事だそうです。

暫くの間は自身のみでその悟りの境地を楽しんでいたそうです。
と言うのも、人に教えを説いても悟りの境地を得ることは出来ないだろうと考えたからだそうです。
ところが梵天という神様が現れて衆生に教えを説くように言われたそうです。これを梵天勧請と言います。
そこから多くの人に教えを説くようになっていったわけです。
80歳で入滅(亡くなる)するまで精力的に旅をしながら教えを説いておりました。


説明がさくっとし過ぎですかね。^^;

真言宗では御釈迦様を重要視していない、などと批判される事があります。
実際にはまったくそんな事はありません。
御釈迦様の悟った「法や真理」そのものである大日如来様を敬うと言う事は、他の多くの仏様も敬うと言う事であり、もちろん御釈迦様を敬わない訳がありません。
御釈迦様を御本尊としてお祀りしているお寺が少ないのは確かですが、真言宗系のお寺で御釈迦様の誕生を祝う「花まつり」なども普通に行なうお寺が多いですし。

私も日々のお勤めでは御釈迦様を観想し、真言も唱えます。
稀に真言は御釈迦様の禁じた呪文ではないかと言う方もおりますが、礼拝用言語とされているサンスクリット系の言語で仏様を称える言葉や教え、仏様の功徳が説かれているのが真言であり呪文ではありません。知らない言葉だから呪文のように聞こえるとは思いますが。^^;


posted by 未熟な修行者 at 23:32 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記