正しく生きるとはB

2018年02月28日

続きです。

正しく生きるとは具体的に何かを「十善戒」をベースとして書いております。
今回は「十善戒」の「三業」の内、「意」に当たるもので、3つあります。
「意」は心で思ったり、物事を感じたりする働きと考えて下さい。
「三業」の内、「身」や「口」よりも重要視されております。
と言うのも、人は「身」や「口」の行動の前に、心で考えたり物事を感じるからです。
例えば「お金が欲しい」と考えたり感じたりして、「盗み」を働いたり、そこまでいかなくともお金を持っている人を妬んで悪口を言ったりしてしまうというような事です。
つまり一番の根本的な部分であると言われているのです。


不慳貪(ふけんどん)
物惜しみをしたり、貪りの心を起こしてはならないと言う事です。
「慳」が自分の所有物を手放したくないという物惜しみを意味し、「貪」が未所有の物を手に入れたいなどの貪りを意味します。

誤解されやすいところなのですが、自分の所有物は惜しみなく人に渡しなさい、物を欲しがってはなりません、そういった欲から離れなさい、と言う事ではありません。
もしそうだとすれば、働いてお金を得るのも、働いたお金を貯めて欲しい物を買うのも駄目と言う事になってしまいます。

当たり前の事ですが、自分が働いて報酬としてお金を得て、欲しかった物を買うのはまったく構わないのです。
ただ、「足るを知る」と言う言葉がありますが、分不相応に何でも欲しがらずに身の丈にあった分だけで満足し、過剰な貪りの心を起こさないと言う事です。

また、自分のお金はたとえ1円でも人には渡さないなどと考えるのではなく、余裕があるのであればたった1円であっても寄付をして、他の人にも喜んでもらおうとする、他の人も幸せになれるようにと願える気持ちが大切と言う事です。


不瞋恚(ふしんに)
簡単に言ってしまえば、怒ったり恨んだりしてはならないと言う事です。
誤解される方がおりますが「怒る」と「叱る」は別ものです。

「怒る」と言うのは自分の思い通りにならない、自分はこいつが気に食わない、自分が欲しいものが手に入らない、自分の考えと違う、などのように自分を中心に考えたもので、つまりは仏教でいう「自我」を中心としたものである事が殆どです。
また「怒る」というのは行動でもありますが、心の中でくすぶった状態の「怒る」もあります。

「叱る」と言うのは、相手の為を思ってのことであり、これは行動です。心の中でくすぶっている「叱る」と言うものはありません。

但し「怒る」という感情の中にも人の為を思っての事の場合があります。
つまり、慈悲の心が奥底にあって「怒る」と言う事も無いわけでは無く、この場合の「怒る」は問題ありません。
ですが、「怒る」と言う感情は最初こそ慈悲の心があっても、その内に「怒り」だけになってしまう事も多くあります。こうなると駄目で、問題無いのは人の為を思っている内だけなのです。

先に書きましたように「怒る」と言うのは大抵は自分中心の考えである事が多いわけです。
人はそれぞれ考え方も違いますので、自分を中心にした考えだけで怒ったところで無駄な事なのです。

確かにイラッとする事も多い世の中ですし、私もそういう事は多くあります。^^;
そういった場合には自分の気持ちを客観的に観察して、それを心の中で唱えてみる事です。
「怒り」の気持ちが沸き上がってきたら「自分は怒っている」と繰り返し唱えます。
不思議な事に「怒り」の気持ちが静まってきます。


不邪見(ふじゃけん)
言葉通りで言えば、邪な見解を持つなと言う事です。
少し分かり易く言えば、人間の狭い知識、しかも人それぞれ違う知識を基準にして、判ったように勝手に物事を正しいと決めつけてはならないと言う事です。
あっさり言えば、自分中心の勝手な考えをするなと言う事でもあります。
(御坊様の説法では、もっと仏教的な説明がなされますが)

自分が正しいという勝手な思い込みは、あくまでも自分中心の勝手な見解でしかありませんから、そこには他人の違う見解を聞き入れる心の余裕すらも無いことが多く、違う見解の意見を言う人に対して腹が立ったり、人を馬鹿にしたりと言う事を平気でするようになってきます。
つまり、軋轢を生む元となる事が多いわけです。

人それぞれ、知識や思考、育った環境や文化も、もっと言えば常識すら違うことも普通にありますから、自分勝手な見解は無意味であり、有害でもあるのです。


「意」に当たる「戒」について書きました。
「十善戒」はこれで終わりになります。
本当はもっと色々細かく書いて説明するべきなのですが、そうすると何十倍もの文字数になってしまうので、なるべく簡潔に書いたつもりです。(分かりにくい部分も多かったかもですが)

「十善戒」はコメントであったように、道徳そのもので至極当たり前の事ばかりでしたね。^^;
でも、これを守るのは非常に大変なわけで、だからこそ「戒」として存在しているわけです。
完璧に守るのは現代では難しい部分もありますので、決して守れないのは絶対に駄目と言う訳ではなく、なるべく守るように努力する、仮に守れなかった場合はきちんと反省する、そうやって少しでも人格向上をしましょうねと言う事です。

posted by 未熟な修行者 at 23:55 | Comment(11) | 日記

正しく生きるとはA

2018年02月24日

続きです。

正しく生きるとは具体的に何かを「十善戒」をベースとして書いております。
今回は「十善戒」の「三業」の内、「口」に当たるもので、4つあります。
「口」とは「言葉」と考えて下さい。
よく「口は災いの元」とも言われるように、不用意な発言によって人を不快にさせたり、自身が窮地に陥ったり、場合によっては悪意を持った言葉を発したために人を死なせてしまう事もありますので仏教では割と重要視されています。
その割には仏教関係者を名乗る者が他者に対して平気で誹謗中傷している事もありますが。^^;
なお、口から発する言葉だけでなく、文章にした場合やインターネットでの書き込みなども同じと考えて下さい。


不妄語(ふもうご)
嘘をついてはならないと言う事なのですが、すべての嘘が駄目と言う訳では無いです。
普通に社会で生きている限り全く嘘をつかないでいるというのは難しいです。何でもかんでも正直な事を口に出せばいい訳ではありません。人の為を思って嘘をつく事もありますし、人間関係を円満にする為に嘘を言わねばならない事だってあります。
どんな嘘が駄目なのかをきちんと考える必要があります。

相手を騙して損をさせよう、騙して自分が儲けてやろう、こういった嘘は駄目です。論外ですが「振り込め詐欺」などはそのものですね。

他にも相手を本当に困らせてやろうと思って嘘をつくのも駄目ですね。
自分が気に食わない奴だからと、近所中にその人の評判を下げるような嘘の情報を流すような人もいますが、こういったものも当然ながら駄目ですね。

では、友達同士の間で冗談半分で嘘をついて騙すのは問題無いでしょうか。
これは判断が難しいところです。騙されたと知った友人が「なんだ、嘘か」と笑って何も気にしないでくれるのであれば、これは問題ありません。
ただ、本当に何も気にしていないのかは騙された側にしか分かりません。あまり怒りを露わにするのも大人げないと思って表向き笑って気にしていないフリをしているだけで、実は心の中では怒っているかも知れません。その場合は駄目な嘘なのです。

つまりは相手が損害を被る事が分かってて嘘をついたり、相手が傷つく事が分かっている嘘をついたり、怒りの気持ちを起こしてしまう嘘をついたり、不快に思うような嘘はつくのは全て駄目なわけです。
その判断が出来ないようであれば最初から嘘は言わない方がいいのです。


不綺語(ふきご)
心にも無いのに必要以上に飾り立てた綺麗事を口にしない、また不確かな噂話を口にしない、と言うような意味です。
「不妄語」のところで、「人間関係を円満にする為に嘘を言わねばならないことだってある」と書きました。
その為に心にも無い事を口にする事もあるでしょうが、大事なのは相手が不快に思わない程度にしておくと言う事です。
綺麗事というのは最初の内こそ心地良く聞こえても、必要以上に飾り立てられると不信感を持ち、その内に「心にも無い事を言っている」と不快に感じてくる事もあります。
軽い御世辞程度は必要な場合もありますが、そのように不快な気持ちを持たせる程に美辞麗句を並べるなと言う事になります。

不確かな噂話を口にしないと言うのは、根拠も無い事を言ってしまい人を傷つけるような事があってはならないと言う事です。
昔からあるのは「ねえねえ、知ってる?○○さんって□□らしいよ」レベルの根拠も無い噂話を近所の人達が人から人へ伝えると言うような事ですが、最近多いのはネット上での噂話です。
何かの事件があると勝手な推測をして、まったく無関係な人を犯人扱いしたりする事も多くあります。そして怖いのは多くの人へ伝えるのが「拡散」という形で非常に簡単であるという所で、まったく根拠の無い誤った情報であっても簡単に拡散されてしまう事も多くあります。
勿論ネット上での情報により解決が早まったりする事件が全く無いわけではありませんが、根拠も無い勝手な噂話のレベルの物が圧倒的に多いことは確かです。
無実なのに犯人扱いされたり、根拠の無い悪評を流される立場の人はたまったものではありません。
拡散する場合は、根拠の無い不確かな噂話であった場合に傷つく人や迷惑を被る人がいるかも知れないと言う事をよく考えるべきです。

詳細を書く事は控えますが、ネット上に根拠も無い推測レベルの情報を拡散されたため、それを見た方から現実の生活でも心無い仕打ちをされるようになり、追い詰められて自死を選んでしまった方がおります。
最初に勝手な推測をネットに書き込んだ人が悪いのは確かです。ですが誰も相手にせずに拡散される事が無ければ自死に到る事は無かったのではないかと思います。
拡散した方々は純粋な正義感からの行動かも知れませんが、まったく無実の人間を傷つけた上に死を選ばせてしまった要因になったのです。
言論の自由と言うもの自体は尊重致しますが、私はこれが悪業ではないとはとても言えません。

無責任な噂話はそういった可能性もあるのだと言う事をよく考えるべきだと思います。


不悪口(ふあっく)
文字通り悪口を言わないと言う事ですが、乱暴な言葉を慎むという意味もあります。
極々当たり前の事ですので詳しく書く必要もありませんが、一つだけ誤解しやすい点があります。

それは悪人や犯罪者に対してであろうと悪口や乱暴な言葉を慎むべきと言う事です。
そういった人に対してであれば構わないだろうと考える方が多いと思いますが、「十善戒」は自分自身の人格向上の為のものですから、たとえ相手が誰であろうと言わないと言う事が大事なのです。
そんな人の為に、自身の人格を下げるような言葉を吐くのは勿体無いと考えるのが良いですね。

最近は人格者であるべきはずの政治家でも悪口雑言をあっさりネットに書いていたりしますが。(笑)


不両舌(ふりょうぜつ)
二枚舌を使うなと言う事です。
Aさんには「Aさんの言うとおりですね、Bさんは良くないです」と言い、Bさんには「Bさんの言ってる事が正しいですよね、Aさんは間違ってます」のように二枚舌を使うのは良くないという事ですね。
どちらも不快に思わないように両方に味方しているだけですが、AさんとBさんはそれぞれ自分の方が正しいと言われ、それを信じてしまいます。
その結果として、AさんとBさんのそれぞれが自分が正しいと主張して仲違いしてしまう事もあるでしょうし、更にはAさんとBさんの周りの人達まで巻き込んでしまう事もあるでしょう。相手を不快に思うからです。
場合によっては、二枚舌を使ってどちらにも良い顔をする人の事を不快に思うかも知れません。
二枚舌は無責任なのです。不快にさせてしまうかも知れないという考えが無いからこその二枚舌なのですが、よく考えて気をつけねばなりません。


「口」に当たる「戒」について書きました。
言葉は気をつけて使うものです。「考え出したら何も喋れないね」と言った友人がいますけれどね。(笑)

次回は「十善戒」の内、「三業」の「意」に当たる「戒」についてを書きます。

posted by 未熟な修行者 at 23:57 | Comment(11) | 日記

正しく生きるとは@

2018年02月18日

コメントで正しく生きるとは具体的にはどんな事なのかというネタを頂きました。
そう言えば、あまり詳しく書いていないような気がします。
具体的には仏教の「戒」を守ることです。(戒とは文字通り「いましめ」のことです)

宗派によっても違いはあるのですが、僧侶や修行者に対しての「戒」は非常に数多くあります。
詳細に書き出すとキリが無いため、真言宗では僧侶も一般信者も守るべき事とされている「十善戒」というものをベースに書かせて頂きます。なお、他の宗派でも同じような代表的とされる「戒」があります。

「十善戒」は十個の守るべき戒めが示されているのですが、内訳としては「身・口・意」の「三業」に分けられます。
「身」に当たるものが3つ、「口」に当たるものが4つ、「意」に当たるものが3つあります。
「三業」の「身・口・意」というのを見て「あれっ?」と思う方もいるかも知れませんが、そう思われた方はなかなか鋭いです。
以前に少し書きました「三密」も「身・口・意」ですね。

「三業」の「業」とは果報(報い)を生じさせる原因となる行ないの事です。
「十善戒」の「三業」とは報いを受ける行ないは「身(からだのおこない)・口(ことば)・意(こころ)」の3つに分けられ、それらを守れば悪業とはなりませんよ、仏の道ですよ、と戒めるためにあります。
残念ながら私はあまり詳しく述べる立場にはございませんので簡単に書きますが、「三密」は「三業」の戒めを守らないと正しいものとはなりません。つまり悪業があれば、いくら「三密」を実践しようと思っても無意味であると言う事で、密接な相関関係があるわけです。

話しが脱線しました。
「十善戒」を分けて、正しく生きるとはどういうことかを「三業」それぞれに分けて書いていきたいと思います。

なお、「守れなかった=即駄目」と言う事ではございません。
現代社会では必ずしも全てを完璧に守ると言うのは非常に難しい事です。
ですから、自分は守れていないから駄目だ、と簡単に諦めてしまう必要はありません。
全てを守るのが大事であるのは言うまでもありませんが、自身が出来る範囲で守るのも、なかなか出来ないとしても出来る限りは守ろうと努力する、こういった程度であっても非常に有意義なことです。
そして、たとえ守れなかった場合であっても心の底から真摯な反省をするのも同じくらい有意義な事なのです。


それでは、まず「十善戒」の「三業」の内、「身」に当たるものの3つを書きます。
「身」は簡単に言ってしまえば「行ない」のことです。


不殺生(ふせっしょう)
文字通り、殺生を禁じる戒です。
人に対してはわざわざ言うまでもなく勿論なのですが、他の生き物に対しても禁じております。

では、蚊や蠅やゴキブリなどや、農作物に被害を及ぼす害虫や雑草などはどうするんだ、という話になってまいります。
本来はこれらの殺生も禁じておりますが、病気を媒介する事があったり、食物などに対して甚大な被害をもたらす事もあるため、現代ではそう悠長な事は言ってられないのは事実なので、そういった場合には致し方ありません。何の悪影響も及ぼさないのに無闇に殺生するのは駄目であると言う意味で理解していて問題ありません。

また、猟師・漁師・畜産・屠殺業に携わる人はどうするんだ、と言う話もあります。
だから、人間は植物だけ食べていればいいんだと言うのは極端な解釈です。実は植物も生き物の一つなので同等に禁じると言う考え方も多くなってきました。
以前にも書きましたが、御釈迦様でさえ肉食はしておりました。チベット仏教のダライ・ラマ14世も体調の為に医者から薦められて肉食しております。
仏教が肉食を禁じたのは中国に渡ってからの事です。
そもそもが人間は、動物であろうと植物であろうと他の生き物を犠牲にして生きるしかないのは当たり前で、そうしなければ生きられないのだと言うのも当たり前なことです。
そういった他の生き物の命を犠牲にしなければならない職業の方は、無闇に命を奪っている訳ではありませんし、職業として致し方ないのです。
無闇に殺生をしないのが一番であり、仮に上記のように致し方ない場合であっても、犠牲になる命への慈悲や贖罪、感謝の気持ちなどを持つのが良いのです。

それならば、他者に悪影響を及ぼす悪い人間ならば殺生してもいいのか、これも勿論駄目です。
殺生される者にも大事な人や悲しむ人もいるわけです。そういった悲しみや悔しさの気持ちを人に持たせてしまう事も大変に大きな悪業を積んでしまう事に他なりません。


不偸盗(ふちゅうとう)
あっさり言ってしまえば、人の物を盗んではならないと言う事です。
至極当然の事と言ってしまえばそれまでです。

一般的に私達が考える盗みというものを働く人はそうそういないとは思いますが、拾ったり誤って手元に来た物をネコババするのも立派な盗みです。
例えば、道端に百円玉が落ちていて拾ったとします。又はお店で買い物をしてお釣りが数円多かったとします。人によってはこれくらいならいいか、と自分の物にしてしまう方もいるかも知れません。
百円玉を落とした人は大変切羽詰まった状況にいるのかも知れません。それこそ百円足りなかっただけで借金が返済できずに会社が潰れてしまう事だってあるかも知れませんし、その足りない百円を何とかするために別の盗みを働かせてしまうこともあるかも知れません。
お釣りを多く渡してしまったお店では売り上げの集計時にたった数円であっても何度も計算し直して余計な心労や苦痛を味わせてしまう事があるかも知れません。たった数円で何度も計算させ直す店長などを恨みに思う店員もいるかも知れません。
たった数円から百円程度であっても、それがどれだけ大きな悪業になってしまうのかは分かりません。


不邪淫(ふじゃいん)
無闇に邪な性的関係(邪淫)を持つなと言う事です。

愛し合う男女がいれば性的関係を持つのは不思議なことではありませんので、絶対に駄目と言う訳ではありません。それすらも否定してしまうと人類は滅びてしまいますからね。
一時の感情や欲望だけで性的関係を持ったり、性行為に溺れて自身を見失う事の無いよう、よく考えて節度を持つよう努力しなさいということです。

お互い遊びと割り切って性的関係を持って、その時は後悔する事も無くそれで良かったとしても、時が経って大事な相手が出来た時に「なんて馬鹿な事をしていたんだろう」と悔やむ事になるかも知れません。そんな思いを自分や相手が持てば、それも悪業になり得ます。
昨今流行って(?)いる不倫などは邪淫の最たるものです。
当人同士だけでなく、不倫相手の伴侶や家族にまで苦しみや悲しみを与えてしまう事だって多くあります。これも悪業以外の何物でもない事は分かると思います。


次回は「十善戒」の内、「三業」の「口」に当たる「戒」についてを書きます。

posted by 未熟な修行者 at 23:04 | Comment(9) | 日記