仏壇や位牌を分けてもいいの?

2017年08月18日

こちらのブログでの話題ではないのですが
「仏壇を引き取るってのは可能なのか?」
という疑問を知人女性から聞かれました。
話の流れでそういう疑問が出たのでしょうが、そもそもお寺さんに聞いた方が確実ですけどね。^^;

田舎のお兄様のいる家に仏壇と位牌があるそうなのですが、そのお兄様は元々信仰心が無いようで、普段は仏壇を閉じたまま、お盆や年末年始に親族が集まる前だけ掃除をして御花を供えているそうです。
些細なきっかけで判明したそうなのですが、仏壇の扉は閉じられたまま埃まみれで開けているような形跡も無かったそうなので、おそらく普段は何もしていないのだろうと。
知人女性は強い憤りを感じて、仏壇や位牌を自分の家に引き取りたいと思ったそうなのです。

この知人女性も既婚者ではありますが御主人は三男ですので御自宅には仏壇は無く、自分のところで引き取っても問題はないと思うがどうなのかと聞かれたのです。

現代では形だけ葬儀や法事は行なうとしても信仰心など無く、兄弟や親族の家に仏壇があっても普段は何の供養もしていないというケースもかなり多く、同様の疑問を持つ方も割と多いのではないかと思いましたので記事にしてみようかと思った次第です。


まず、嫁ぎ先などで御自宅に既に違う宗派の仏壇があり、位牌のみを引き取りたい場合です。
この場合、原則的には位牌のみを引き取り、違う宗派である元からあった仏壇に安置すると言う事はしません。
表現が変ですが、現在の仏教の宗派のルールとしては余程の事情が無い限り、移転元の宗派のお寺さんも移転先の宗派のお寺さんもあまり良い顔はされない事が多いかも知れません。
しかし、仏壇と言うのは御本尊を祀る場所であるので、一つの仏壇に両宗派の御本尊様を祀ることなく、別宗派の位牌のみを安置する分には何も問題無いと言われる宗派やお寺さんもあります。と言いますか各お坊さんの考え方によるかと思います。
どちらにしても両方のお寺さんに相談してみるしか手はありません。

仏壇ごと引き取る場合、一つの家に宗派の違う仏壇が2つあるのは(持ち込む先の)御家族が了承している限り問題ありません。御本尊様が別々なのであれば致し方ないからです。
仏壇を安置する場所や向きについては両宗派のお寺さんに確認された方が良いと思います。
一つ言うなら、同じ部屋に2つの仏壇を安置するのは可能な限りは避けた方が宜しいかと思います。
どうしても同じ部屋に安置するしかない場合は、どちらかを格上の仏壇と見做す必要があり、たいていの場合は御主人の家系の仏壇が格上と言う事にして、それよりも立派な仏壇は駄目、格下とする方は少しずらして安置しなければ駄目、更には向かい合わせにしては駄目、などなど気を遣う必要もあります。
祀る側の気持ちの問題もあるので、可能であれば別の部屋の方が気分的にも良いでしょう。

嫁ぎ先であるが自宅に仏壇が無い場合、(持ち込む先の)御家族が了承していれば、仏壇を引き取っても良いと思います。


ただ、どの場合であっても少々の問題はあります。
多くの宗派では仏壇も御位牌も安易に移動してはならないとされているからです。
田舎にある仏壇を嫁ぎ先に移動したいと言う場合、まずは田舎で葬儀や法要を依頼したお寺さんに連絡して、移転前の法要を行なって頂いて、移転先では同宗派のお寺さんを探して移転後の法要を行なって頂く必要があるとされています。最近ではあまり気にされる方もいないのか、もしくは知らないのかは分かりませんが、きちんと行なわれる方も意外と少ないのですが、家を引っ越す際の仏壇の移動であっても必要な事とされています。
宗派によって色々違うのですが簡単に言えば、移転前に魂抜きをしてもらい、それから移動し、移転先で魂入れをしてもらう、と考えて頂ければいいでしょう。当然お金はかかってしまいます。

仏壇ごと移動はなかなか大変ですが、位牌のみ移動したら残った仏壇はどうするんだと言う話もありますし、そもそも位牌の移動も承諾してくれないかも知れません。
宗派や地方によっては位牌分けと言う方法をとる事も出来る場合があります。同じ位牌を作って頂いて、自宅で祀る際にお寺さんに魂入れをしてもらう、つまり複数の家に位牌があると言う形ですね。
位牌代と魂入れだけなのでそれほどお金はかかりませんが、位牌分けが出来るとしても当然ながら移転元と移転先の御家族の了承は必要です。
また、別宗派の仏壇に一緒に安置と言う訳にはいかない場合もあり、お寺さんによっては立派ではなくともきちんと仏壇は用意するよう言われる事もあり、それなりにお金がかかる場合もあります。
また、宗派やお寺さんによっては位牌分け自体行なわないと断られる場合もあります。


仏壇ごとでも位牌のみでも、または位牌分けだとしても、たとえ何も御供養していないと言っても、現時点で仏壇や位牌をお祀りしている家の方々の了承が必要になります。
他の親族の手前もありますので簡単にいいよと言う訳にもいかないことも多く、親族間のトラブルにならないとは言えません。その辺りは十分に注意が必要です。


そこまで色々と説明は致しましたが、私が知人女性に最終的にアドバイスしたのは、もっと遥かに簡単な方法です。

御供養が無いのは故人にとって悲しい事、きちんと御供養してあげたいと思う気持ち自体がまず御供養になっている、親族間でトラブルが起きては故人は悲しむので無理して仏壇や位牌を移す必要はない。故人が元気だった頃の写真を飾って、お花、お茶、お水、御線香、故人の好きだった物などをお供えして、心から供養すればいい

そのように伝えました。

信仰している宗派がある身で言うべき事ではないですね。
ますます、御師匠(師僧)様の事も詳しい分派も言えなくなる発言だったかもです。^^;

posted by 未熟な修行者 at 23:26 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

霊が消える=無になる?

2017年08月13日

コメントで頂きました御質問へのお答えの記事です。
人によってはまったく違う意見であったり、宗教宗派によっても考え方は違うと思いますが、それらの意見や信仰を否定するつもりではありません。
あくまでも、たまに見える程度の私のこれまでの経験からの推測たっぷりな見解となりますことを御理解下さい。


自死に限らずですが、強く執着している思いだけがその霊の意識となっているような気がします。逆に言えば霊は執着と言う意識そのものなのかも知れません。

生まれた時の意識があるとします。その意識には何の執着もありません。敢えて言えば、生まれるという執着はあるのかも知れませんが、とりあえずは何も無いと考えて下さい。
この最初の意識に、この世で生きて色々学んだり経験した意識がくっついていきます。それが考え方や人格なりを形成していきます。
もちろん生きている間には、お金が欲しいとか、そういった執着の意識もくっつくわけですが、お金が手に入ればそれは消えます。それ以上欲しいとか考えれば再びくっつくのでしょうが。
たいていの人間は自分の人生に折り合いをつけて生きており高望みは無理と分かっているので、お金が手に入ればいいな、くらいは執着としてはごく小さいですし執着にもならないかも知れません。

亡くなる際に自分の人生に満足していれば執着などないのでしょうが、なにしろ亡くなる瞬間の事なので、その時点に抱いた、愛情や怨み、苦しみ、心残りなどの執着はとても強いものとなってしまいがちです。
霊の意識としては、この最後の執着の意識で包まれていると言うか、その執着が前面に出てしまっているというような状態で、それが霊の姿や現象としての存在として現れているのではないかと思います。


霊の姿はたいてい生前の姿と同じです。身体がバラバラになるような亡くなり方をしたとしてもバラバラになった姿で現れてくる事はまずありません。たいていの場合は霊自身の意識にある生前の自分の姿で現れる事が多いと思います。
ただ、見せたい姿はある程度の範囲では自由に変えられるようです。
顔を見せたくないのか顔だけハッキリ分からないように出来るようですし、亡くなる直前に負った怪我を見せたいと思っていれば怪我を見せる事も出来るようです。自分が気に入っていた服装で現れる事も多いです。
こういった自分をどう見せるのかも執着の一つかも知れません。

姿を変えられると言うところからもお分かりかと思いますが、一応自我(と言いますか執着以外の本人の意識そのもの)はあります。霊と会話が出来る方や、霊能者が霊を説得する事がありますが、これも霊に執着以外の意識が無ければ不可能な事です。
ただ、現れる多くの霊では執着が前面に出てしまっており、本来の意識はその後ろにあると言う感じと思って頂ければいいかと思います。
更に本来の意識などより遥かに執着が強過ぎるのは、いわゆる悪霊と言われるものなのだと思います。

この本人の意識というのはある意味では厄介です。
残された者が亡くなった人に対して執着を持っていると故人は成仏できない、故人の死をいつまでも嘆いていると成仏できない、などという話を聞いた事があると思います。
これも霊に執着以外の本人の意識があるために言われる事です。
死の瞬間にはほとんど執着が無かったのに、残された者が抱く自分への強い執着を感じとり、それをきっかけに故人が残った者に対して執着を持つ、つまりお互いに執着を持ってしまうというケースが稀にあります。
心情的には大変よく分かり、悲しむこと自体は故人への供養ともなりますのが、故人に対して必要以上に執着するのはよくありません。死は死として受け入れて悲しむのであれば問題はありません。
そういう意味で言えば心情は別としても下手に執着を持つくらいであれば、霊には会えない方が良いと思います。

執着とはこの世で肉体があってこその物であり、亡くなってまで執着を持ち続けても既に肉体が無いのですから絶対に叶わない事です。叶わない執着がいつまでも残っている事こそ故人には苦しみです。
肉体が無い以上いつまでも執着していても苦しいだけで意味がないのだと分かれば執着はいずれ薄れていきます。
つまり、その霊の意識の表面上を包んでいた執着が消え、生きている間に積み重ねてきたその人の歴史とも言うべき意識だけになります。
執着さえ無くなれば、この世といつまでも関りを持つ意味も人に姿を見せる意味も、更にはこの世に留まる理由すらもなくなるわけで、執着の意識つまり霊そのものとしての存在意義が薄くなって消えるのかと思います。そして、この時点以降から見えなくなり、感じなくなるのではないかと思います。
私には出来ませんが霊能者が浄霊などで説得するのは、執着しても叶わないのだと霊にいち早く理解させる事なのかと思います。


いずれ消えると言うのは、この世の人間には見えもせず、感じる事も出来なくなると言う意味です。
霊がその場に縛り付けられているなどと言う事はその場に強い執着を持っていない限りはあり得ませんので普通に移動もします。移動したためにその場では見えなくなったと言う可能性もあります。
ただ、段々薄くなって消えていく霊を多く見ておりますので普通はいずれ消えてしまいます。
その消えた霊がどうなったのかですが、既に見えず感じる事も出来なくなっていますので実際には私も分かりませんが、あの世に旅立ったのだと信じています。

完全に無になったと考えられない事も無いですが、執着を捨てて消えた霊や、死後には現れなかった霊が、数年後など時間が経ってから現れる場合も本当にごく稀にあります。
この場合、普通の霊とは感じ方も見え方も違います。悪意はまったく感じず、見えても恐怖心もわきません。薄く光っていたり、普通の霊と違い透明感(透明と言う訳ではなく、綺麗に見えると言う意味です)があります。曇りのない微笑み(敢えて言うなら乳児の屈託ない笑顔が一番近い感じ)を浮かべている事が多いです。暖かい心地良さも感じますし、周りの空気も澄んでいて柔らかい感じです。これは神仏の存在を感じた時とやや近い感覚です。
どういう仕組みなのかまでは分かりませんが、あの世から一時的にこの世に戻ってきて姿を見せているのではないかと思っています。
ですので完全に無になると言うのも違うのだろうと思っています。

余談な上にまったくの推測でしかありませんが、あの世ではその人の歴史そのものである意識も長時間かけて徐々に消えていき、生まれる前の意識と同じ真っさらな状態になった時に、新たな命として転生してくるのではないだろうかと思っています。


自死した霊が長く苦しむという説は宗教的な教えの背景が大きいかと思います。
私が知る限りでは、死因が自死だからと言って他の死因の場合とは大きく違うと言う事は無いと思っています。
どちらかと言えば、すべてを断ち切るために自死している方が多いのでこの世に強い未練や執着が無いのか、亡くなってすぐに姿も見えず存在も感じられなくなっているケースの方が多い気がします。
自死でなくとも病気や事故などでも即死でない限り、自分は死ぬんだと悟った瞬間にこの世との決別を覚悟する方が多いためなのか、多くの場合は霊として姿を見る事もありません。
もちろん執着がある場合は別だと思いますが。


以下は少し仏教信仰者の意見が混じってしまうお話ですが御勘弁下さい。
自死は非常に罪深い事で、場合によっては来世ではもっと苦しむ事になったり、そもそも人間界に生まれて来ることが出来ない可能性もあります。
残された側にとっても病死や事故死以上にショックの大きい事で、場合によっては自分達にも自死の責任があるのではないかと思い悩ませてしまうという罪業もあるのです。

であればこそ、自死という罪業が僅かでも軽くなるように故人の為に御供養すべきと思います。
執着するのではなく故人の事を決して忘れない事、故人の罪業が少しでも軽くなり安らかにあの世で過ごせるよう心から願う事、そして残された者が僅かなことでも構わないので善い事をしてその功徳が故人のものとなるよう願う事、ですね。心から願う事で僅かであっても故人の助けにもなる筈です。

もちろん、この為だけにわざわざ何かの宗教や宗派を信じるなどしなくても構いません。
言ってみれば大きな括りでの神仏という意味で、お寺でも神社(忌中の参拝は駄目ですが)でも教会でも、その時々で気が向いた所で願っても構いませんし、御自宅の御部屋で願っても構わないです。


長々と書いてしまいました。
見える事があるだけの私などには分からない事だらけですし、どう説明すればいいのかも難しく、お聞きになりたかった御質問に十分お答えできているとも思えません。また、書いた事に当てはまらないケースもあるので必ずしも合っているとも言えません。
(いつものことですが)書き殴ったようなまとまり無い文章になったことと、人によっては失礼と受け取るかも知れない部分もある事も重ねて御詫び致します。

posted by 未熟な修行者 at 22:59 | Comment(22) | TrackBack(0) | 日記

お休みです

2017年08月09日

今日は仕事がお休みです。
と言っても、朝は電話やメール対応に追われておりました。

その後ちょっとした雑用を片付けて、念願の買い物に行ってきます。
何を買うのかは内緒です。(たいした物じゃありません)

閉店時間が早く、土日は休業日、行きたくてもなかなか行けなかったのです。
更には店長の気分次第なところもあって営業日が不定で、平均週3日ほどしか営業していないのです。^^;
電話してみたら今日は営業していると言う事だったので行って参ります。

それなのに、この猛暑です。
お寺にも行きたいのですが、果たして行けるかどうか・・・

皆様も熱中症等お気をつけ下さい。


posted by 未熟な修行者 at 11:39 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記