今年もお世話になりました

2017年12月31日

こんばんは。

本年の御厚情に心より感謝申し上げます。

何だか年末ギリギリまで忙しくてバタバタしておりました。(実際は進行形ですが)

なんと、このブログも2年目を終えて、いよいよ3年目になるのですね
と言っても私が好き勝手な事を書いているだけの場所ですので、それほど感慨深いものはございませんけれど。^^;
それでも読んで下さる方がいらっしゃって、コメントまで頂戴できるのは大変嬉しく思います。

来年もスローペースな更新頻度で、相も変わらず訳の分からない記事ばかりだと思いますが、宜しく御願い致します。^^;

皆様に良いお年が訪れますように。


posted by 未熟な修行者 at 20:13 | Comment(7) | 日記

なぜ仏教に?(5)

2017年12月27日

年末進行と言いますか、駆け込みで「大至急」という仕事が多くて超多忙です。いつも年末は割と暇なのですけど今年はどうなっているのでしょう。(笑)

事細かに書いていると年を跨いでしまいそうですので一気に書いてしまいます。もちろん長いです。
そして例によって端折って書いていますので訳が分からないかも知れませんが御勘弁を。^^;


では続きです。

40年近く昔、やさぐれて小生意気で理解力も足らない中学生の時に救いを求めて色々な宗教に触れてみて、その時に感じた事を素直に書いています。
現在の私は他宗教他宗派の批判や否定をするつもりはまったくございません御理解下さい。
御信仰なさっている方にとっては暴言に聞こえるかも知れません。大変申し訳ありませんが、大昔の事と言う事で御理解、御容赦下さい。



本堂で静かに座っておられる御坊様の邪魔をしないよう、その後ろに私も静かに座りました。その御坊様は別に御経をあげているようでもなく黙ったままです。
私に気付いていないのでしょうか、その御坊様は後ろを振り返る事も私に声をかける事も無く、じっと座ったままで数分間が経過しました。
話しをしに来ている私としては声をかけた方がいいのかどうか迷いました。ひょっとしたら寝ているんじゃないかとさえ思いました。^^;

じれったくなってきて声をかけようかと思った瞬間に御坊様が口を開きました。
「お待たせして申し訳ありません」
そして、体をこちらに向けました。普通は座禅をしたままでこちらに向きを変える事など無いと思うのですが、腕を使ってズリズリッと体の向きを変えたのです。少々不自然と感じてしまう動作でした。
座禅をしているように思っていたのですが脚は組まれておらず、膝下を若干前に投げ出したような恰好でした。胡坐を崩したような感じです。
こちらに向き直ってから裾の乱れを直したのですが、その動作にも少々不自然さがありました。年齢は40歳前後に見えます。

その御坊様は
「脚が不自由なもので無作法ですが御許し下さい」
と言いました。これはかなり驚きました。
身体が不自由な為に致し方ないのでしょうが、悪い言い方をすれば少々だらしなくさえ見えてしまいます。正直なところ、そんな体で御坊様としてやっていけるのかとも思いました。今まで御坊様に抱いていた凛としたイメージとはかなり違います。
しかし、その一方でこのお坊様には気さくに何でも話せそうな雰囲気が感じられます。感覚的には友達目線で親身になってくれる学校の先生のような感じです。
「あいにく目もよく見えませんので…失礼ですが、どなた様でしょう?」
裾を直す仕草も不自然に感じたのは手探りだったためのようです。

自分が誰であるのか、なぜ訪れたのかを説明しました。

会話形式だと必要以上に長くなってしまいますので、ここからはかいつまんで書きます。

この御坊様は僧侶になって暫くしてから不運な事故に遭ってしまい、右脚の膝が完全に曲がらなくなってしまい、正座も結跏趺坐も出来なくなったとの事です。
また脳にダメージを受けた為なのか、視力が極端に低下してしまったのだそうです。まったく見えないわけではなく光や色や形が何となく分かる程度、文字は眼前数センチの距離であれば何とか読めますが、普通は機械を使って超拡大したものを読むそうです。(一文字ずつ追っていく程の拡大率だそう)

長男なので住職を継ぐはずだったのですが、住職としての務めはとても果たせないと思い、先代住職と弟さんに自ら御願いをして、弟さんが住職を継ぐようにして貰ったのだそうです。
僧籍自体はあるものの、出来る範囲で弟さんの御手伝いをするだけで、ある意味では養われているような状態なのだそうです。
ですが、そのお陰で時間だけはたっぷりとあるので、自身のいるお寺の宗派に限らずに様々な宗派の教えを学んだりしているそうです。代筆して貰った手紙と電話で他宗派の方にまで教えを乞う等もして、更にはそれなりの地位にいる御坊様でも学ばないような古い教えなども学んでいるそうです。

私が中学生だと知れば相手にされないかと思いましたが、まったくそんな事はありませんでした。最初だけ丁寧な言葉遣いで、その後は割とざっくばらんな話し方になりましたので相手にされていないのかと思いましたがそういうわけでもありませんでした。
自分はこの寺に来る人の話し相手になるくらいしか出来ないからと謙遜しておりましたが、じっくりと話も聞いて頂けると言うか、私がひとしきり喋るのですが合間合間に理解できなかった点を質問をしてくるだけで、それ以外はほぼ相槌を打つだけにして口も挟むことなく好きなように喋らせてくれます。

私が言いたい事を喋った後でその御坊様は言いました。
仏教を信仰すれば救いがあるかと言えば、ただ信じるだけでは何もならない。誤解を恐れず言えば、そういった意味では今の日本の仏教では救われるとは言い難い。
如来や菩薩をはじめとする諸仏諸尊を心から信じるのは間違った事ではないが、その救いを信じるだけで自身は何の努力もしないと言うところからは程遠いところにあるのが本来の仏教である。

そもそもは、人として生きるのは苦であるから、その苦から逃れるためには、心を正しく保ち、行動を正しく改め、言葉を正しく使い、人として正しく生き、優れた自己の完成を目指していく事こそ必要な事で、最後はその優れた自己のままで正しく死んでいくと言う教えが仏教なのだと。
我儘放題に自分の思い通りに生きようとするから無理が出て、心の中に苦しみを生み出してしまう、それを煩悩と表現するがその煩悩を打ち消すのは、その心の持ち主である自分自身だけなので、仏教では正しく生きると言う修行が大切なのである。
諸仏諸尊を信じる事で何らかの功徳があるのだとしても、人として正しく生きる努力をしない限り、いくら信じてもその功徳は現れることはないはずである。諸仏諸尊の悟った真理に自身も近づけるよう努力してこそ、その功徳もあろうと言うものである。

自分は霊を見た事は無いが、見えないながら何らかの気配を感じたりなどはあるし、この世の全ての事象が解明されている訳ではないので否定も肯定もできないが、見える人にとっては存在し、見えない人にとっては存在しないと言うだけのこと。
自分などは霊だけでなく周りにある物ですら見えていないが、それと同じ事である。視力が良い人は遠くにある物でも存在を確信できるが、視力が悪ければ遠くにある物の存在は確信できないと言う事と何ら変わりはない。貴方は視力か感受性が良いため存在を確信できるだけなのだと思えばいい。
ひょっとしたら神仏がそういう役目を授けたのかも知れないが、そうではなくて高尚な意味など何も無く、ただ見える人として生まれただけなのかも知れない。どちらにせよ貴方は見える人として、今この世に生きている人であると言うだけなのだ。

見えるだけで何も出来ないと悩むのも、ついてこられることがあるのが嫌だと悩むのも、体調に悪影響が出ることが嫌だと悩むのも、自分の思い通りにならないから悩むのである。自分の思い通りにいかないのが人生と言うものである。
風邪をひきやすく体調を崩す事が多い人が悩むのと何ら変わりはなく、思い悩むだけでは何も改善しないので自身が気をつけるしかないのだ。

人に話して変わり者扱いされたり、嘘つき呼ばわりされるのが嫌なら、見えた霊の話などしなければいいだけである。見えない人や懐疑的に思っている人にまで信じてもらおうとして、信じてもらえないと苦しむのは自分勝手な思い込みによる愚かな行為である。信じない人、信じたくない人にとって見えないものなど何の意味も持たないのであるから話さない方が良い。

貴方はまだまだ若く宗教に頼らずとも生きる力に溢れているのだから、無闇に宗教に救いを求めて頼るだけになるには若過ぎる。出家するのであれば別だが、人生経験が無いまま宗教に頼り切ってしまうと歪んだ人間になってしまいかねない。
宗教に神秘的な救いを求める前に、そういう人間として自分は生まれたのだと言う事を素直に受入れ、その上で自身の心をしっかりと見つめて正しく保ち、自身を向上させる努力が先決なのである。
齢を重ねていく内に、きっと力になってくれる理解者も現れるだろうし、仏教ではなくとも自身が信じるに足る宗教を見つける事もあるだろうし、その際には自分で良い悪いを良く考えて判断すれば何を信仰しようが良いのである。

かなり端折って要点だけ書いていますが、そう言ったお話しでした。
間違った事を言われているとまでは思いませんでしたが、正直に言ってしまえば何の解決にもならない事しか言われていません。
ですが、まさか御坊様から宗教に頼るな、自分が正しく生きる努力をしていればいい、などと言われるとは思いませんでした。
その御坊様のお寺の宗派どころか仏教を勧められてもいませんし、本堂で話していたにもかかわらず御本尊に手を合わせろとも言われる事も無く、また機会があれば話をしにいらっしゃいとしか言われませんでした。

しかし、信じるなら仏教だと思いました。
この御坊様は、信仰すれば救われるのだと安易な事を言わなかったからです。(そういう宗派も無いわけでは無いですが)

と言っても実際に信仰するに到るのは数十年後であり、この御坊様のお寺の宗派でも無くて、一部の他宗派からは神秘主義だとも言われることもある真言宗を信仰する事になりましたけれど。(笑)
実際に信仰に到るまでは酷いもので、少しはマシになったものの暫くはやさぐれ続けていましたし、仏教で禁じられている様々な戒を守っていたなんて事は無く、どちらかと言えば破りまくりでした。^^;

実はこの御坊様にはそれから一度もお会いしておりません。
信仰を持とうと思った時に思い出して、そのお寺を訪れた時には既に遷化(他界)されておりました。
もう一度くらいは会ってお話していれば良かったなと言う思いはあります。
時間はかかりましたが、この御坊様に出会えたお陰でいくらかでも気持ちを楽にして頂けて、仏教を信仰する下地になったわけです。
私が無信仰であろうが他の宗教宗派を信仰していようが気にしないのは、この御坊様が言っておられた本来の仏教の教えはと言うお話が未だに影響しているのかも知れません。
言っていた通りに、助けになってくれる理解者も現れましたし、尊敬できる師僧に出会えましたし。


終わりです。
最後の方は凄い端折ってしまい、すみません。^^;


posted by 未熟な修行者 at 23:52 | Comment(9) | 日記

なぜ仏教に?(4)

2017年12月20日

続きです。

40年近く昔、やさぐれて小生意気で理解力も足らない中学生の時に救いを求めて色々な宗教に触れてみて、その時に感じた事を素直に書いています。
現在の私は他宗教他宗派の批判や否定をするつもりはまったくございません御理解下さい。
御信仰なさっている方にとっては暴言に聞こえるかも知れません。大変申し訳ありませんが、大昔の事と言う事で御理解、御容赦下さい。



前回は神社に行って話をしてみようと試みた結果、忙しい神職の方に殆ど相手にされず、若く愚かだった私はそれだけでイラッとしてしまったお話しを書きました。^^;


やっと仏教が出てきます。(笑)
神社では殆ど神職の方に相手にされなかったので「ならば仏教だ!」と思ったわけです。
ですが、そもそも仏教がどういうものかもよく分かっていません。
家には仏壇はございましたが、御供養のために御供えと御線香をあげて手を合わせるというだけであって、実際どんな教えなのかもまったく知りません。
それどころか漠然としたイメージでは「ちょっと古臭いな」と感じていたのも事実です。
仏教の開祖が御釈迦様と言う事は知っていましたので、お寺の御本尊は全て御釈迦様の像だと思っていたくらいです。(笑)

例によって、まず基礎的な知識だけでも仕入れておこうと思いました。
ですが、経本そのものを読んでも理解できないしょうし、色々な御経のどれを読んだらいいのかも分かりません。
そして当時は今と違い、中学生でも分かる程に仏教を分かり易く説明した書籍はそれほど多くはありませんでしたので、なんとなくある程度までは理解出来そうな書籍を適当にいくつか読んでみました。
ところが書いてある内容が普通に違ったりするのです。
今なら著者がどの御経を題材にするのかによって違ってくるのだと言う事も分かりますけれど。

最も困るのが少しマニアックな内容が書いてあったりして「そもそも仏教って何なんだ」と言う事がよく分かりません。著者もそういったマニアックな点を強調して書いているのではないかと感じるほどです。
仏教というものが何なのかと言う事が分かっていないままで、宗派毎の違いやマニアックな儀式の事、宗派によって本尊も詠む御経も違うなどと言う事は分かったものの根本の教えが何なのかは分からないままです。

教えの基礎となるものが一体どれなのかが分からないのですから、正直に言えば聖書や古事記、日本書紀などよりも困りました。
仕方が無いので、よく分かっていないまま、普通に御坊様に聞いてやろうと思いました。
(行ったお寺の宗派などは伏せさせて頂きます)

最初に行ったお寺ですが、忙しいのかまったく相手にされませんでした。(笑)
もしかしたら子供など相手に出来ないと思ったのかも知れず、親御さんと一緒に来た方がいいと言われました。
帰り際にパンフレットみたいなものは何冊か頂きましたが、その宗派で定期的に出している刊行物だったようで私が知りたい事は載っていませんでした。

次に行ったお寺も同じで御住職以下忙しいらしく、代わりに御住職の奥様らしい年配の御婦人が親切に多少のお話し相手になって下さいましたが、あまり具体的な話はできないままでした。同様にパンフレットを頂きましたが、やはり肝心な部分は分かりませんでした。

やさぐれていて沸点も低めですので、この時点で既にイライラしました。(笑)
僧侶と言うのは、昔からもっと身近な存在で庶民の些細な相談事でも親身になって相手をするものなのではないかと不満でした。(昔は庶民の相談相手になっていたと言う事は読んだ)
色々と忙しいのかも知れないが庶民と交流をして教えを広めるのが僧侶の務めのはず、相手が中学生だから御布施も期待できないと思っているのであろう、所詮は金儲けなのかと思いました。

勿論、今では僧侶とは想像する以上に大変忙しいのだと言う事も分かっているのですが、当時の私って奴は。^^;

その次のお寺では、初めて副住職の方が親切に対応して下さったので少し感激しました。
ただ、(これも宗派は書きませんが)少し一神教に近い考え方をする宗派だったため、親切に話し相手になって頂いていながら申し訳ない限りなのですが、私にはやはり合わないと思いました。
あと、霊の存在はやんわりとでしたが否定されました。(笑)

やはり仏教も私には合わないかなと思いましたが、今まで行ったのとは違う宗派のお寺にも行ってみようと思いました。


数日後ですが、また別のお寺に行ってみました。
ここで少し運命的な出会いがあったのです。
御住職は出かけているとの事でしたが、応対して下さった御住職の奥様から
「御坊様とお話したいなら御住職のお兄さんが本堂にいるので行ってみてはどうか」
と言われたのです。

その言葉に従って本堂に行ってみると、御坊様が一人静かに本堂に座っておりました。
座禅を組んで瞑想しているように見えましたので、邪魔にならないように静かに本堂に入って、御坊様の後ろの方に座りました。


まだ続いてしまいます。長いですね、すみません。^^;


posted by 未熟な修行者 at 23:00 | Comment(7) | TrackBack(0) | 日記