釈迦十大弟子D

2017年05月15日

お釈迦様の十大弟子の最後の二人のお話しを書きます。
なお、@〜Cでもそうですが、出家順とか悟った順とか関係なく書いていますので誤解無きようお願い致します。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

阿那律
アヌルッダやアニルッダと呼ばれます。
日本での呼び方は「あなりつ」が一般的かと思います。
釈迦族出身でお釈迦様の従弟と言われております。
お釈迦様が悟りを開いた後に帰郷した時、釈迦族の多くの青年達と近隣の釈迦族王家の諸王子達も出家しており、その中には羅睺羅や阿難陀もおります。彼らが出家することを聞き、その7日後に自身も出家致しました。
この方の有名な話があります。
ある日、お釈迦様が祇園精舎で説法をしている最中に彼は居眠りをし、怠惰であるとお釈迦様に叱られてしまいました。反省した彼は以後、不眠不休を誓って常坐不臥(座ったままで、横にならない)を実践し修行を続けました。その様子を見たお釈迦様は彼の身を案じて「怠惰も過剰な苦行も煩悩であるから眠るように」と諭しましたが彼は固辞し修行を続けました。その為か彼は失明してしまったのです。
しかし、その代わりに肉眼では見えないものを見通す「天眼」(智慧の眼)という力を得ることが出来ました。その為、「天眼第一」と言われております。
他の経典では、彼が僧衣を繕おうと針に糸を通そうとしますが、目が見えないため糸を通せずに苦労している事を聞きつけたお釈迦様が「私が功徳を積ませて頂きます」と言って彼を助けたという話があります。彼は驚き、師にそんな事をさせる訳にはいかないし、仏陀であるお釈迦様がこれ以上功徳を積む必要があるのかと遠慮しようとしましたが、お釈迦様は彼に仏陀になろうとも布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの実践(六波羅蜜)を積み続けることが必要と説かれたと言います。
なお、お釈迦様の最後の布教の旅にも同行していて、お釈迦様の入滅後には葬儀の用意をさせたと言う説があります。

優波離
ウパーリと呼ばれます。
日本での呼び方は「うぱり」または「うぱーり」が一般的かと思います。
インドのカーストでも下層のシュードラの出身で、元は理髪師であったと言われております。
シュードラとは職業の自由も無く、主に苦役を行なう階級であり、その当時の宗教であったバラモン教を学ぶ事も許されておりませんでした。
阿那律や阿難陀が出家する際に彼らに付き従っており、主人である阿那律が出家する際にすべての所有物を彼に与えようとしましたが、彼はそんな金品よりもお釈迦様の教えの方が偉大だと言って断った上で自身も出家を切望し、結果的に阿那律達よりも先に出家する事になりました。
お釈迦様は出家した者には身分も地位も無く、唯一あるのは出家した順番であり、先に出家した者が兄弟子であると言いました。つまり、出家前には主人であった阿那律達も、先に出家した彼を兄弟子として礼拝したのです。これを見たお釈迦様は「釈迦族の高慢な心をよくぞ打ち破った」と賛嘆しました。
当時のインドとしては異例中の異例でもあり、革命的でもある「本来は人間に階級などない」というお釈迦様の教えが明確に示された事例の一つとして有名です。
彼は律儀な性格の持ち主で、戒律に精通して厳格にそれを守ったため「持律第一」と言われております。
お釈迦様の教団における規律は彼によって設けられたものが多くあり、お釈迦様入滅後の最初の結集では阿難陀が主に経を誦出したのに対して、彼は主に戒律を誦出しております。

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釈迦十大弟子C

2017年05月08日

引き続き、お釈迦様の十大弟子のお話しを書きます。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

須菩提
スブーティと呼ばれます。
日本での呼び方は「しゅぼだい」もしくは「すぼだい」が一般的かと思います。
この方の出身にも複数の説がありますが、とても裕福な商家に生まれたそうで、一説によるとお釈迦様に「祇園精舎」を寄進した須達多(スダッタ)長者が彼の叔父であると言われております。
幼い頃から天才的な頭脳の持ち主だったそうで、僅か10歳頃には既に学ぶ事が無くなってしまったそうです。
その為、慢心して他人を見下し、粗暴な行ないをするようになってしまい、親からも見放され家を出ることになりました。
放浪の末に祇園精舎に辿り着き、お釈迦様の説法に深い感銘を受け弟子入りしました。
修行に励んで行ないをあらためた須菩提は、それまでが嘘のように諍いを起こす事がなくなり、とても温和な性格になりました。
これらの事から「無諍第一」と言われておりますし、温和な性格で人々から愛され尊敬されて多くの供養を受けたので「被供養第一」とも、「空」の教えをとてもよく理解していたと言う事で「解空第一」とも言われております。

羅睺羅
ラーフラと呼ばれます。
日本での呼び方は「らーふら」もしくは「らごら」が一般的かと思います。
お釈迦様の実子です。
王族の太子であったお釈迦様には実はもう二人の妃がいて、それぞれに子供がいて全員出家したと言う説もあるのですが本当かどうかは分かりませんし、悟りを開いたのは彼だけですので一子とされております。
実子である割には(実子だからとも言えますが)逸話も多い方です。
一番有名な逸話はラーフラという名前にまつわるもので、これは御存知の方も多いかと思います。
ラーフラとは「障碍」という意味であり、お釈迦様が出家するにあたって自分の子供を残していかねばならないと言う「障碍」が出来てしまったと嘆いて付けたのだと言う説があります。
個人的な意見ですが、おそらくこれは違うと思います。
当時のインドに於いては、ある程度の身分ある家では原則的に跡継ぎがいないと出家が難しかったようなので、跡継ぎが出来たという事は心置きなく出家できるようになりこそすれ、出家にあたっての「障碍」にはなりえません。
実際は釈迦族の紋章である「竜の頭」という意味を持つ方の「ラーフ」を使って「竜の頭を戴く一族を率いる者」という意味合いで「ラーフラ」としたのだと思います。事実、お釈迦様の父親である浄飯王がこの名付けを非常に喜んだという記録があります。
悪魔を意味する「ラーフ」という言葉もあり、後世にその連想で出家を妨げる「障碍」なのだという意味で「ラーフラ」と名付けた、というこじつけの説を作ったのだと思います。
羅睺羅が出家したのはお釈迦様が悟りを開いた後に帰郷した時で、その時に若くして出家しました。しかし、年が若かったので一人前の修行者である比丘ではなく、まずは沙弥(年少の見習い修行者)となりました。
その頃はお釈迦様の実子ということで特別扱いを受けて慢心があったようですが、20歳で比丘となってからは舎利弗について修行し、不言実行を以て密行を全うしました。
その為「密行第一」と呼ばれております。

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釈迦十大弟子B

2017年05月04日

引き続き、お釈迦様の十大弟子のお話しを書きます。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

富楼那
プルナ、フルナあるいはプンナとも呼ばれます。
富楼那というお弟子は複数人いたようですので、弥多羅尼という女性の子である富楼那という意味で、富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)と書かれる事も多いかと思います。
日本での呼び方は「ふるな」が一般的かと思います。
出身も複数の説がありますので割愛しますが、お釈迦様と同い年であると言われており、十大弟子の中では一番早く弟子となったとも言われております。
柔和であり、弁舌に優れ、どんな人にも解りやすい説法をすると言う事で「説法第一」とされております。
阿難陀からも慕われ、また敬われていたとの事です。
晩年に故郷に赴いての説法をお釈迦様に願い出た際には、迫害や殺される覚悟をして尚説法に赴くつもりである事を宣言し、お釈迦様はその覚悟を褒め認めました。
余談ですが、迫害などがあろうとも耐え忍んで説法に赴き教化すると言うのは、富楼那に限らず多くの弟子達が普通に行なっておりました。と言いますか、敢えてそういう所に赴いている弟子が多いです。


迦旃延
カッチャーナ、もしくはカッチャヤーナと呼ばれます。
日本での呼び方は「かせんねん」が一般的かと思います。
出身も複数の説がありますが、その一つは生まれたばかりのお釈迦様(ゴウタマ・シッダルタ太子)がいずれ仏陀となるであろうと予言をしたアシタ仙人の元弟子であり、非常に聡明ではありましたが難解な偈文(教え)の意味が解読できず、お釈迦様に教えを請うた事がきっかけで弟子になったと言われています。ただ、弟子になった時期ははっきりと分かってはいないようです。
一度聞いた教えは忘れず理解できたと言われるほど聡明だったそうで、前述の富楼那とは少し違って哲学的な議論を得意としていたので「論議第一」と言われております。
(言い争うような議論の事ではありません、念の為)
故郷の王様から、お釈迦様に直に説法を聞きたいという依頼を受けましたが、お釈迦様から特に許されて自身が帰郷して布教に努めました。また、周りの王族と彼らの治める地にいる人々にも教えを説いて回りました。
更にはお釈迦様が入滅された後にも一心に布教に努め、迦旃延の布教がインドに仏教が大きく広がった要因であるとも言われております。

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釈迦十大弟子A

2017年04月23日

引き続き、お釈迦様の十大弟子のお話しを書きます。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

摩訶迦葉
大迦葉とも迦葉とも書きます。
マハーカッサパとかマハーカーシャパなどと呼びますが、日本での呼び方は「まかかしょう」が一般的です。
元々、幼い頃からバラモンとして修業をしていた方です。出家しようと考えていましたが家系の絶える事を恐れた親に結婚をさせられました。ですが、相手も出家しようと考えていた女性で、12年後に別れて二人とも出家します。
ちょうど同じ頃に出家したばかりのお釈迦様に出会い、どちらかが真理を悟ったら師弟関係となろうと約束しました。その後、真理を悟ったお釈迦様の噂を聞いて弟子となりました。
仏弟子の行なうべき十二の頭陀行(生活規則)を厳格に守ったため「頭陀第一」と言われております。
舎利弗と目連が亡くなってからは仏教教団の後継者と目されておりました。
お釈迦様の入滅後に教えが誤って伝わるのを懸念して最初の結集、つまり弟子達が集まり、それぞれが記憶しているお釈迦様の教えを確認し合い経典として編纂する集まりを開催しました。そのおかげで現代に仏教が伝わっているという大きな功績を為したわけです。
色々と伝説の多い方で、お釈迦様の弟子で従兄弟でもある阿難陀が連れ歩いていた弟子が気儘に還俗してしまった事を叱りつけたと言う事もあったそうです。
また、お釈迦様が入滅された時には弟子500人と説法の旅に出ており、彼が急ぎ駆けつけてお釈迦様の足に礼拝するまで火葬の薪に火が点かなかったそうです。


阿難陀
阿難とも書きます。アーナンダ、アナンと呼びます。日本でも「あなん」と呼ぶ事が多いです。
この記事にありますように施餓鬼会の起源となった事や、お釈迦様の従者として25年間付き従っていたので最も多く説法を聞いておりますので「多聞第一」とされております。
また非常に美男子であったために女性からよくモテた(決して靡かなかったそうです)と言う事でも有名です。
お釈迦様の養母(実母はすぐ亡くなっています)の出家の希望を叶えるため、お釈迦様を説得し女性の出家を認めさせたという話も有名です。
十大弟子の中では一番若くて悟りを得るのも遅かった為、他の弟子から窘められることも多くあったそうです。
お釈迦様が入滅された時にも未だ悟りを得られておりませんでしたが、その後修行に邁進し悟りを開く事が出来たと言われております。
前述した結集には摩訶迦葉から悟りを得ていないから参加を認めないと言われ、一心不乱に瞑想修行をし結集の日の朝に悟りを開いたとか、悟りは得ていないが一番多く説法を聞いて記憶していたので参加を認めざるを得なかったなど複数の説がありますが、結集には参加できてお釈迦様の説法を口述しました。
多くのお経の冒頭に「如是我聞」という言葉が良く出てきますが、これは「私はこう聞いた」という意味でこの場合の私と言うのは、多くが阿難陀の事であるとされております。
なお、お釈迦様の十大弟子の中では最も長生きで、120歳まで生きたと言われております。

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釈迦十大弟子@

2017年04月18日

お釈迦様の誕生日の記事を書きました。
ネタは幾つかあるのですがなかなか記事が書き進まないので(と言ったら失礼ですが)、お釈迦様の十大弟子のお話しを何回かに分けて書こうかと思います。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

まずは
舎利弗
サーリプッタとかシャーリプトラと呼ばれますが、日本での呼び方は「しゃりほつ」が一般的です。
他に有名な呼ばれ方もあり、般若心経の中に「舎利子」と出てくるのは舎利弗の事です。
それ以外のお経にも度々名前が出てまいります。
サンジャヤという懐疑論を唱える師の弟子でしたが、後述する目連と共にサンジャヤ師の信徒250人を引き連れてお釈迦様に弟子入りしました。
弟子入りしてすぐに悟りを開くことが出来たのと、お釈迦様の説法を大変良く理解したので「智慧第一」と言われております。その為、お釈迦様からの信頼も非常に篤く、お釈迦様の代わりに説法もしたそうです。
ただ、残念ながらお釈迦様よりも先に病で亡くなってしまいます。


目連
目犍連とも書きます。
モッガラーナとかマハーマゥドガリヤーヤナと呼ばれます。日本では「もくれん」もしくは「もっけんれん」が一般的です。
舎利弗と一緒にお釈迦様に弟子入りしました。そして7日後には悟りを開いたそうです。
神通力(いわゆる超能力)が使えたそうで「神通第一」と言われております。
この記事に書きましたように「お盆」の起源となったことで有名です。(「仏説盂蘭盆経」自体は後代に中国で作成された偽経と言われておりますが)
仏教教団を良く思わないバラモンに三度襲われ、三度目で亡くなっております。
神通力があるのに殺されたと言うのはおかしくないかと言われますが、この理由は後にお釈迦様が述べていて経典に書かれております。長くなりますので興味のある方は御自身で調べて下さい。(笑)


上記のお二方はお釈迦様よりも早く亡くなっているのですが、これはお釈迦様の説法が正しい事を示すために先に成仏したのだと言われます。
お釈迦様は「命あるものは必ず滅する」と説いておりますが、それでも大事な高弟を二人も先に失ってしまい非常に悲しまれたのではないかと思います。

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4月8日はお釈迦様の誕生日

2017年04月05日

日本では、4月8日はお釈迦様の誕生日とされています。
多くのお寺さんで生誕を祝う仏教行事が行われます。(一部宗派を除きます)
釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)、灌仏会(かんぶつえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、花祭(はなまつり)、など呼び方は色々ありますが、いずれもお釈迦様の生誕を祝う行事です。

使われている暦自体が現在とは違いますので、本当に4月8日であるかは実は分かりません。
かの玄奘三蔵が「ヴィシャーカ月の後半8日、あるいは後半15日という説があった」と伝えており、このヴィシャーカ月が漢訳された時に4月と訳されたようです。(ただ、インドの暦では第二の月となっておりますので2月8日とする説もあります)
ともかく、日本に伝わる古いお経では4月8日と記されているので、日本では4月8日とされております。

実は生まれた年も、紀元前624年、紀元前566年、紀元前463年など(他にもある)の説があります。
日本では現在のところ一般的には紀元前463年が生誕年であるという説が有力とされております。

2500年ほど昔の事ですから実際のところは不明であり、残された様々な資料などからの推測になっているわけですが、それは致し方ないですね。


お釈迦様の生誕を祝って、花で飾った花御堂(はなみどう)に、右手で天を左手で地を指している誕生仏(お釈迦様の誕生時の像)をお祀りして、参拝者はその誕生仏像に甘茶をそそぐという行事として一般的に知られています。

花で飾った花御堂は、お釈迦様の生誕地となったルンビニーという花の多い地を表しています。
誕生仏は、生まれてすぐに7歩歩んで天と地を指して「天上天下唯我独尊」と言ったという有名なシーンを表したものです。
甘茶をそそぐのは、お釈迦様の誕生時に天から甘露の雨が降って、その身を清めたという言い伝えを表しています。


仏の教えを伝えてくださったお釈迦様の誕生を祝うとともに、その大きな恩恵に感謝するという日でもあります。
幸いな事に今年の4月8日は土曜日です。お時間があって興味がおありでしたら、降誕会が行なわれている御近所のお寺さんにでも足をのばしてみてはいかがでしょうか。


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更新できず、すみません。

2017年03月30日

皆様こんばんは。
新しい記事を書くことが出来ず申し訳ございません。

齢のせいなのか最悪なまでに体調を崩してしまうと、なかなか完璧には戻りません。(笑)
まだ多少の咳が出る状態なのですが、普通に声も出るようになっており、仕事が出来るまでになっております。

あまりに咳が酷かった為か、主治医に肺癌等まで疑われたりする始末でした。
同じように1ヶ月以上も咳が止まらない人がいて、その人は肺癌だったそうで。
私は幸いな事にその手の異常はありませんでしたけれど。

昔、子供の気管支が弱くて購入した吸入器(ネブライザー)があるので、久しぶりに引っ張り出して私が使うからと言って、吸入薬を出して貰ったりもしました。
幼い頃に経験あるかも知れませんが、物心ついてからは初めて吸入器での薬の服用もしました。
大量の飲み薬の他に、パウダータイプの吸入薬、吸入器用の吸入薬と凄まじい量でしたが。(笑)

咳もだいぶ治まってはきたものの、体調を崩している間に出来なかった仕事の皺寄せが現在に至っても尾を引いている状態であります。^^;
体調も完璧ではないのと、疲れてすぐに寝てしまうので、なかなか記事更新できておりません。

とりあえずは、少しずつ時間を見つけては記事を書こうと思っております。

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春のお彼岸です

2017年03月17日

「春は書き忘れるもんか」
と思っていましたら忘れてました。^^;

本日、春の彼岸入りでございます。
ちなみに彼岸明けは23日でございます。

基本的には秋のお彼岸と同じように、御先祖様に感謝して正しく生きるよう努力する、と言う事で問題ございません。
細かいお話は昨年の、秋のお彼岸の記事を見て頂ければと思います。

手抜き感が満載の記事で申し訳ございません。(笑)
まだ体調が完全ではないのでお許し下さい。
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咽喉が大ダメージ

2017年03月12日

すみません、少し体調を崩してしまっております。^^;
ただ単に風邪をひいただけなのですけどね。

そんな状態なのに、つい先日見える時期に突入。(笑)
体調が悪い時には勘弁してほしいものです。
とは言っても、見えていただけで特に面白い事も恐い目にもあいませんでしたけれど。
見えるのはその日だけで終了だったので助かりました。

具合悪くてイライラしてるので、普段から怖い顔が更に怖くなっていたと思います。
そんな時に寄ってこられたら完全に喧嘩腰になっていたことでしょう。
ひょっとして、だから寄ってこなかったのかなとも思ったりしますが。


現在の状態ですが、咳のし過ぎにより昨日からまともに声が出なくなりました。
うちの家族も何言ってるか聞こえないと。^^;
明日とか仕事の電話が多そうで、そっちの方が恐怖です。

勿論こんなこと書いているくらいですので咽喉が大ダメージ負っているだけで、元気は元気です。
たいした事はないのでお気遣いなく。

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真言宗ですが

2017年03月02日

忘れていましたが、以前に頂いたコメントで真言宗のどの分派を信仰しているのか聞かれたことがございました。
そのコメントには他の分派を否定する内容が少々書かれておりましたので承認は致しませんでしたが。

真言宗を大きく分けると「古義真言宗」と「新義真言宗」に分けられ、更にそれぞれ幾つかの分派に分かれており教義も多少違いがあります。
なので同じ真言宗であっても違う分派に対して否定的な事を言う方も稀におられます。
私自身は「古義」も「新義」もどちらの教義も好きなので、どちらに属する分派なのかも内緒です。(笑)

誤解を恐れずに言えば、私は真言宗の分派にあまり拘りがなく、檀家になっているお寺もありません。
一応はメインとなる分派はあるにはあるのですが、あまり分派に囚われたくないという気持ちも強く、いくつかの分派に師と仰がせて頂いている方がおります。
様々な分派の都合の良いところを選んでいるとも言えなくもありませんので、信者としては正しくないと言われてしまうかも知れませんね。
問題があるとは思っていませんので改めるつもりはこれっぽっちもありませんが。^^;

その昔お釈迦様はそれぞれの人に合わせた教え方をしたという事もあり、真言宗以外であっても自分が良いと思ったものは学んでいこうと思っているわけです。
実は原始仏教の時代の経典(もちろん翻訳されたものですが)も好きで良く読みます。

原始仏典では「神聖化された仏様」を信仰してどうこうと言うものではなく、御釈迦様が人としてどう生きるべきかを説いたものが書かれており、感覚的には学校の先生が生徒に教えているような感じです。
なので、時代が進んで編纂された仏典とは違い、この辺りの仏典には宗教嫌いの方が嫌悪する所謂「神聖化」や「宗教臭さ」というものがほぼありません。
宗教嫌いの方でも原始仏典であれば違和感も抵抗も無く読める物が多いです。お薦めです。


話が逸れてきましたが、真言宗を信仰し在家で修行しているという以上の事を明かすつもりがありませんので、その辺りはあまり突っ込んで聞かないで下さい。(笑)

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穴守稲荷神社

2017年02月24日

続けざまですが、私の好きな神社を御紹介させて頂きます。

東京都大田区羽田にあります穴守稲荷神社です。
江戸時代後期に勧請されたと言う事ですので、歴史的にはそれほど古くはありません。
御祭神は名前の通り、稲荷大神である「豊受姫命(とようけひめのみこと)」です。
稲荷神社としてはかなり大きな神社です。

敗戦後に米軍による羽田空港拡張に伴って現在の地に遷座しました。
門前に合った赤鳥居の撤去を行なおうとしたところ、事故が起きたり工事関係者が病気になったりで撤去できないまま残されていたと言う事で有名になりましたので、そちらの話で御存知の方もいるかも知れません。
ですが、この赤鳥居も平成11年に羽田空港拡張に伴って撤去ではなく移設されており、そういった曰くのあった場所からは移されております。(その時は事故はありませんでした)

拝殿もいい感じなのですが、拝殿右横にある沢山の鳥居をくぐっていきますと奥の宮と築山があります。そちらには様々な御利益のある御稲荷様の祠がいくつか祀られており、その時によって違いますが神聖な空気を感じる事があります。

奥の宮では御神砂を頂く事が出来ます。
家内安全や商売繁盛などの様々な御利益があると言われ、頂きに来る方も多くいらっしゃいます。
奥の宮と境内整備の工事が平成30年に完了予定となっており、御神砂を頂けるのは別の場所になっているかも知れません。
実は暫く行けてないので状況が分かりません。^^;

とても良い神社ですので宜しかったら御参拝されてみて下さい。

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小網神社

2017年02月16日

東京都中央区日本橋小網町にある大好きな神社です。
境内は凄く狭くて、鳥居から御賽銭箱まで5メートル程しかありません。
ビルに囲まれており、ちょっと離れた所から見ただけでは見逃す方もいるようです。

御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのかみ、いわゆる稲荷大神)、市杵島姫命(いちきしまひめのかみ、いわゆる弁財天)、福禄寿(ふくろくじゅ)の三柱です。

かなり由緒のある神社です。現社殿は再建されたり修復されたりしておりますが。
社殿の昇り竜、降り竜の彫刻が見事です。
東京銭洗い弁天としても有名ですし、場所柄、金融・証券関係で御利益を求める方が参拝されることもあります。平日でも常に数人の方が入れ替わりで参拝しているような感じです。
境内は狭いのですが、授与所(9〜18時)もありますので御札やお守りを授かる事も出来ます。


私はここの神社が大好きなんです。
途切れる事ないくらいに参拝される方がいるのに結構、神聖で空気がいい感じである事が多いです。

近くのお客さんの所に仕事で伺った時には、時間が許せば必ず御参拝させて頂いています。
実は私はちゃんと御利益を頂くことができました。どんな御利益だったかは内緒ですが。(笑)

もし宜しかったら御参拝されてみてはいかがでしょう。

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金縛り

2017年02月12日

みなさん、金縛りにあった事ありますか?

実はですね、私は所謂「金縛り」にあった事がありません。
大概、寝ている時に何故か目が覚めて身動きが出来ず、恐ろしい体験をするみたいなものを言うのが一般的なようですが、そういった金縛りになったことなど一度もないのです。

金縛りはレム睡眠が原因と言う説がありますね。
身体は眠っていて弛緩しているが、脳は半分起きている状態になると金縛りと言われる現象になるとか。

実体験としては私も何故か目が覚めたら変なものがそこにいることに気付いたという事はありますが、体は動くのです。
その後は(実はビビッてしまい)眠れずにテレビやビデオを見て朝を迎えた事はあります。でも体が動かずに恐怖体験をするという金縛りにはあった事は無いです。
ですので理屈はよく知らないですが、よく言われる金縛りはレム睡眠が原因という説が正しいような気がします。

目覚めたのに体を動かすことが出来なくなるほどの影響を持った霊などいたら、普通に昼間に見えてしまっても動けなくされると思います。そんなのに会った事無いです。
あ、ビビッて動けなくなるのは別です。(笑)


私がたまに見えてしまうと言う事を知った人から
「よく金縛りにあうんですよ」
と聞かされる事も多いのですが、実は私は金縛りにあったことがありません、と言うと非常に驚かれたりします。(笑)

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写仏のやり方

2017年02月05日

以前に写仏をする時間が取れないと書いたら意外と興味ある人がいらっしゃったようです。
単純にお絵描き感覚で書きたい方はそれほど気にしなくても構いませんが、一応は作法と言うものがありますので記載しておきます。
但し、一部の真言宗系の作法と思いますので、他宗派の方は御宗派に沿ったやり方でなされて下さい。


まずは手を洗い、口を漱いで、身を清めます。本来ですと全身を清めるべきはずですが、なかなかそうもいかないと思います。塗香を使っても構いません。

次に仏壇や掛け軸などの御本尊があれば合掌して三拝します。そういったものが無ければ心の中で仏様を思い浮かべて三拝でも構いません。

次に懺悔文(さんげもん)、開経偈(かいきょうげ)、般若心経などを唱えます。この辺りは調べれば分かるかと思います。ここに書くと非常に長くなってしまうのと、本来は師から教わるべきものですので、スミマセンが割愛します。

次に静かな部屋の机で墨をすり、お手本の上に写仏用紙を重ねて写仏の準備を整えます。
お手本は(すごく少ないようですが)一部の宗派のWebサイトからダウンロードできますし、書店で買い求めても構いません。
お手本と写仏用紙がずれないようにクリップなどで厳重に固定しておく方が良いです。簡単にずれちゃいますので。あと、お手本無しで描ける方は写仏用紙だけを用意すれば構いません。

次に写仏用紙の前に向かって心を落ち着け、作仏形像経を唱えます。と言っても、こちらは調べても分からないかと思います。仏像を作ったり写仏するなどの功徳を説いたお経です。実際には必須でもないようでお寺の写仏会などでも唱えずに書き始める事が多いので、それほど気にしなくてもいいかと思います。

そしておもむろに写仏を始めます。描きづらい場合は写仏用紙を回転させたりして描きやすいようにして描いて構いません。そして、なるべく一気に描き進めます。
この際の注意点ですが、顔は最後に書くようにします。特に眼は必ず一番最後に描き入れると言う事になっています。

描き終わったら、願文と奥書を書き入れます。
願文は願い事で「祈 所願成就」などを写仏の右側に縦書きで書きます。
奥書は写仏の左側下の方に縦書きで日付を「平成〇〇年〇月〇日」、その横に同じく縦書きで名前を書きます。つまり2行書きます。
願文が無い場合には書かなくても構いません。

最後に合掌して普回向を唱えます。これも調べればすぐ分かると思います。


・・・凄いあっさりした内容になってしまった。^^;
写仏自体は簡単そうに見えても、1時間以上かかる事も普通にありますので、時間に余裕がある時に行なわれた方が良いです。もちろん毎日少しずつ進めても構わないですが、その度に身を清めるところから行なって下さい。

描き終わった写仏はお寺に納めても構いません。(御布施が必要な事も多いですが)
宗派の教義やお寺の方針、写仏した仏様によっては受け付けてくれない場合もありますので事前に確認された方が良いでしょう。

御自宅の壁に貼って毎日手を合わせると言うのも問題ありません。

普段は受け付けてくれないお寺でも年末年始であれば納札所が用意される事があります。その時に納めると言う手もあります。
なお、失敗したものも無闇にゴミとして捨てずに保存しておいて、年末年始に一緒に納める方が良いです。

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節分

2017年02月01日

2月3日は節分の日です。

そう言えば節分の日に豆まきをする習慣は仏教のものなのか神道のものなのかを言い争っていた人がいたなと思いだしました。(笑)

仏教を信仰されている方の言い分は、神道では穢れを払うという考えがあり豆をまいて鬼を払う、つまり鬼と言う穢れを払うのだから元は神道の行事だ、というもの。
神道を信仰(と言うのも実は変な言い方ですが)されている方の言い分は、成田山新勝寺では力士やタレントなどを呼んで豆まきしている、神社で行なっている所はそれほど無い、仏教の行事だからだ、というもの。

そして、双方の共通認識としてあるのは、元々は中国から伝わってきたものを追儺(ついな)の行事として宮中で行なわれていたが、民間にも広まって豆まきが行なわれるようになったと言う事です。

まず整理すると、節分と言うか暦(こよみ)自体が中国から入ってきたもので、日本ではそれらを参考に作った(と言うか日本向けにアレンジした)暦しかありませんでした。
暦の中に二十四節気というものがあり、更にその中に立春・立夏・立秋・立冬がありまして、これを「四立(しりゅう)」といい、勿論これも中国で成立したものです。節分とは読んで字の如く季節を分けるものですから、この四立それぞれの前日こそが節分であり、1年に4回あるのです。
現在は春の節分しか残っておりませんが、冬から春になる時期を1年の境で、その前日である春の節分は昔の人からは感覚的に言えば大晦日のように考えて大事にするようになったため残ったと言う事です。

暦も節分も中国から伝来したものであり、暦自体は陰陽道で多く活用されました。
同じく中国から伝わった行事を追儺という鬼払いの儀式も宮中での陰陽道の儀式として行われるようになりました。その流れとして神道に節分という行事が残っているのです。
ですから、節分、追儺の2つは元は陰陽道の行事であり、節分は神道に受け継がれたと言う事になります。

さて、では節分の時の豆まきの行事はどうでしょう。
室町時代に鞍馬山から鬼が出て来て都を荒らしていたが、毘沙門天の御告げにより、炒り豆(大豆)で鬼の目を打ち潰し災厄を逃れることができた、というのが豆まきの始まりだという説があります。
毘沙門天は仏教で伝えられた神ですから、上の説が正しいとすれば(本当かどうかは別として)豆まきと言うのは仏教の行事として取り入れられたものだと言う事になります。

当時から節分に豆まきが行なわれていたかどうかは知らないですが、いつの間にか何となく節分の日に豆をまくと言う習慣になったのかも知れません。
節分イコール豆まきの日と考えるから訳が分からなくなるわけです。色々な風習や宗教儀式が日本で混ざってしまったのです。

ちなみに日本は長いあいだ神仏習合しておりましたし、神社で豆まきの行事が行われる事も実は少なくはありません。(参拝者に来てもらうためと言う理由もあるとは思いますが)
外国の風習なども上手く取り入れることが出来るのも日本の特徴ですし、元が昔の中国の風習であったとしても日本に来てアレンジされ長く伝えられてきた日本の文化なのですから、仏教なのか神道なのかを論ずること自体に意味はありません。

正直な話どっちでもいいじゃないか、としか・・・(笑)


あと、節分と言えば「恵方巻」を思い出す方もいらっしゃるでしょう。
細かい話をしてしまうと、その年の恵方を向いて黙って食べるので「恵方巻」とつけた商品名が全国的に認知されるようになっただけで、以前は「丸かぶり寿司」とか普通に「太巻き」、「節分の巻き寿司」などと呼んでいたはずです。もしかしたら大阪では今でも「恵方巻」とは言わない人が多いかも知れませんね。
太巻きになったのも昭和になってから多くなったらしく、今でも普通の太さの巻き寿司と言う方もいるようです。
以前は大阪の一部地域で行なわれていた風習です。
戦後一旦廃れていた風習ですが、発祥は江戸後期やらと言う説もあります。
そもそも巻き寿司そのものの起源が江戸中期頃らしいですから、それほど古い物ではありません。
誰でも分かると思いますが仏教にも神道にもない風習です。

恵方を向いて黙って願い事しながら食べきる、これもイメージの力次第で何らかの効力が出ないとも限りません。
日本には各地にこういった風習がありますから、別に否定するつもりは一切ありません。
私自身は豆まきも恵方巻もあまり興味がありませんが、昔からのこのような風習っていいなと思っています。


そう言えば以前に「子供の目に当たったらどうするの」というクレームがあって幼稚園の豆まきが中止になったという話を聞いた事があります。
豆まき自体が危ないからやめようではなく、目に物が当たったら危ないから気を付けようと言う事を幼稚園でも家庭でもしっかり教えるのが本来あるべき姿で、豆まきの時期にはその事をしっかり教える事の出来るチャンスでもあるんですけどね。
話が脱線しましたが、今日はこれで終了。
posted by 未熟な修行者 at 23:36 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記