年越しの祓

2016年12月27日

6月と12月の晦日(みそか)に行われる神社の行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月を年越の祓(としこしのはらえ)と言います。

実は、夏越の祓は気付いたら過ぎてまして、記事にできませんでした。(笑)
というわけで
「年越しの祓は忘れずに記事にするぞ」
とその時は思っていたのですが、またもや危なく忘れるところで、気付いたら記事にするにはギリギリではないかと。(笑)

「人形(ひとがた)」や「形代(かたしろ) 」と呼ばれる人の形に紙を切り抜いたものに、名前と年齢を書き、身体の左右左と三回撫でて、ふうっと息を三度吹きかけます。地域によっては体の悪い所を撫でると良いとも言われますね。
これは自分に溜った罪や穢れを人形に移し、神社でその人形を川に流したり焚き上げたりしてもらって祓ってもらうと言う行事です。

たいていの神社ではもう受け付けが始まっているはずです。
無料ではなく一応祈祷料が必要です。と言ってもだいたい数百円から千円程度です。
どこかの神社の氏子になっていれば、ほぼ必ず行なうようです。

だいたい大晦日の午後15時から16時頃に行われて、その後神社は怒涛のように初詣の準備に入らねばなりませんので、ギリギリに人形を納めに行く場合でもお昼くらい迄には納めに行く方が良いです。

ところで時代とでも言いましょうか、車の形の形代は少し前からありましたが、今は犬用の形代、猫の形代と、それぞれ犬、猫のかたちに切った形代を用意している神社もあるそうです。

祓って頂けば、より良い新年を迎えられるかも知れません。

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仏様も派遣されてきてるの?

2016年12月24日

神社は必ずしも御祭神がいらっしゃるとは限らず、派遣されてきた神様がいると思うと書きました。
では、お寺はどうなのか?

仏様は常にお寺にいる訳ではなく、通常は仏様の世界におります。
お寺というのは教えを伝える場所であり、更には本堂などは仏様をお迎えできる場として整えられてあります。
その整えられた空間において仏像や仏画などが媒介となってコンタクトすることが出来ると言う形です。
必要とあらば、それら媒介となるものを通じ、その場に仏様にお越し頂くと言う形です。

実際の所、仏像や仏画が無くても仏様と繋がることは出来ます。
それは自身の心を仏様をお迎えする場として整えればいいと言うわけです。
ですので、仏様をお迎えできるように教えを守り正しく生きるという方法で心を整える者がいるのです。

お寺の本堂が仏様とコンタクトが出来るよう整えられているのは、未だ自身の心を整え切れていない者でも仏様とコンタクトを取ることができるようにするため、仏様が万人に救済の手を差し伸べることが出来るようにするための拠点でもあるわけです。

お寺は誰もが教えを請けることができ、仏様とコンタクトを取るための連絡所として機能すれば良いわけですから、常に仏様がいらっしゃるわけではありません。
いつでも真摯な願いで仏様に語り掛ければコンタクトを取れるよう、更に必要があらば仏様をお迎えできる場所となるよう準備を整えてあるというわけです。

そもそもがお寺という場所でなければならないと言う事は無いのです。
その場所でなければならないと言うのは執着そのものですから、本来仏教の教えではあり得ません。
自身の心にお迎えできるようにする事が本来の姿で、お寺でなければならないと言う場所の限定はありませんので、お寺に仏様が常駐される必要などどこにも無いわけです。

posted by 未熟な修行者 at 23:57 | Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

同じ神様があちこちにいるの?

2016年12月20日

同じ神様を祭神として祀っている神社は全国各地に非常に多くあります。
例えばおそらく日本で一番多いのは稲荷神社、次に八幡神社ではないかと思います。

稲荷神社の場合、主祭神として「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」、「保食神(うけもちのかみ)」などの神様が祀られている事が多いです。
稀にもっと他の神様の場合もありますし、名前が違っても同一神とされている場合もあったりで分かりにくいですが。
稲荷神社は、他の神社の境内にある末社だけでもかなりの数になりますし、個人宅に祀られていることも非常に多く、道端にある小さな祠まで合わせると、それこそ数も分からないくらい多いです。

八幡神社の場合、もう少し分かりやすくて、主祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」ですね。
誉田別命は応神天皇と言われております。
八幡神社の数もやはり凄くて全国に4万社以上あるようです。

「同じ祭神を祀っている神社ならば同じ神様がいるの?」
という質問がございました。
つまり全国に非常にたくさんある稲荷神社で主祭神が「宇迦之御魂神」だったら、どこの神社に行っても「宇迦之御魂神」がいるのか、という質問ですね。

稲荷神社の総本社である京都の伏見稲荷大社には「宇迦之御魂神」自身が、八幡神社の総本社である大分の宇佐神宮には「誉田別命」自身がいらっしゃるのだと思います。

全国の同じ神様を祀る神社では、総本社からの勧請、つまり神霊を分けるという分霊を行ない、その分霊をお祀りしていると言う事になっています。神霊は幾らでも分ける事が可能なのだそうです。
勧請された神社から更に他の神社への勧請という総本社以外の社から勧請される場合もあります。
ともかく、その理屈から行けば同じ祭神を祀っていれば同じ神様がいると言う事になります。

畏れ多い事ですが、実際はそうではないと感じます。
(私個人の感覚の話しですので間違っているかも知れませんが)

何と言えばいいのか分かりませんが、多くの場合は系統としては確かにその祭神の系統だと思うのですが、どうも違う神様がいる気がしてなりません。

私がどこかの神社でやらかして(笑)、拒否や拒絶を受けたにもかかわらず、同じ祭神であるはずの他の神社に行くとあたたかく迎えられる感じを受ける事があります。
分霊と言っても同じ祭神なのであれば、やらかしちゃった神社と同じ祭神の祀られる神社に行けば全部で拒否・拒絶されてもおかしくないはずです。
(心が広いので、すぐに許してくれたと言う事なら別ですが)

ともかく、この点が不思議ですので、実際には違う神様がいるんじゃないかと思えてしまうのです。
先に言ったように多くの場合、系統としては同じ系統の神様である感じはするのですが。
もしかすると勧請されてきた神社の場合には、総本社の神様の部下に当たるような神様が派遣されてきているのかも知れません。場合によっては祭神のお遣いである眷属の方だけが来ているのかも知れませんね。

古く歴史のある神社の場合には元々がその土地の神様を祀っていた場合である事も多く、本来の神様の名前は分からないままで時代が進んで祭神は誰々として体裁を整えなくてはならないこともあったのかも知れません。
場合によっては一番性格とか御利益が近いとされる神様の名前を付けただけかも知れません。
例えば何と言う神様か分からないが豊作を祈っていた祠があったので、いつの間にか食物や農業の神様である稲荷神であるとされて祀られるようになったと言う事もあったかもしれません。

なお、あまり有名ではない神社に行くと
「書いてある御祭神とは違う感じがするな」
と思うことも稀にあります。

基本的には勧請をお願いした神社から派遣されてきた部下に当たるような神様がいるんじゃないのかなと思っています。

神様の姿が見えたり会話できたりすれば、すぐに分かる事なのでしょうけどね。
私がたまに見えるのは見たくもない余計なものだけです。(笑)

posted by 未熟な修行者 at 23:46 | Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

即成仏できるとは限らず

2016年12月15日

戒名を頂くと言うのは仏弟子になると言う事です。

仏式の葬儀をあげた場合(宗派によりますが)、戒名を頂いて仏弟子になると言う形になります。
生前戒名と言って、生きている内に戒名を頂く場合も仏弟子になると言う事です。

仏弟子になると言う事は即成仏、つまり仏様になるのか?
即成仏できるのであれば御布施をして戒名を頂く意義もあるが、生前に悪事を働いて罪業の深い人は戒名を頂いて仏弟子となる葬儀をしたとしても成仏できるとは到底思えない。
となると戒名を頂く意味とは何なのか?

そのような趣旨の御質問がございました。

そもそも戒名とは仏弟子となって戒律を守る証として付けられる名前の事です。
元々の原始仏教には戒名と言うものは存在せず、仏教が中国に渡ってから習慣化したものと言われております。

中国では個人名として「姓=氏(うじ)」と「名=諱(いみな)」があり、それとは別に「字(あざな)」の三つを使っており、個人を「諱(いみな)」で呼んでいいのは親や主などの目上の立場の者だけで、立場は関係なく相手を尊重して敬意を示す場合には「字(あざな)」で呼ぶのが普通でした。
出家して仏弟子になるのは世俗を捨てたと言う事であり、親は勿論、国の君主にも支配される人間でなくなったと言う事で、たとえ親や君主と言えども仏弟子である出家者には建前上と言えども敬意を示して「字(あざな)」で呼ばせる必要が出てきて、いわゆる「戒名」と言う「字(あざな)」が使われるようになったようです。

仏教は中国を経て日本に伝わっていますので、出家して仏門に入った場合には師匠から戒名を付けて頂くのが当然の事となっておりました。

昔は故人となっても一般の人は戒名を頂くと言う事はなく、貴人に限られておりました。
高額な御布施をして戒名を付けて頂くという風習は、お寺の造営や改築の為に多くの寄進を集める手段として、寄進した者には貴人に限らずとも戒名を与えるという事例から始まり、それまで戒名など出家でもしなければ頂けないと思っていた一般の人も先を争うように寄進をして戒名を頂くと言うのが流行りました。

そして日本では仏教信者は死後に極楽に転生するという思想などの影響により、いつの間にか仏式葬儀は「故人を慌てて仏弟子にして成仏を願う」ものとなり、たとえそれまで信者で無かった場合でも故人には戒名を付けるのが当然のように行われるようになりました。
成仏とは仏様になって、輪廻から離脱し、極楽と言われる仏様の世界に生まれることです。

では、故人となって仏弟子になったと言う事は、仏様(亡くなった人と言う意味ではなく)になったのかと言うとそうとは限らず、あくまでも修行者という形になります。

亡くなられたら即成仏とされる宗派の方からは怒られるかも知れませんが、戒名を頂いたからと言って信心も無いまま悪行を積み重ねてきたような人まで成仏して極楽に行けるかと言うと、やはりそんな筈はなく、正しく生きてきた人の方が有利なわけですし、更に信心があればなお有利なわけです。

葬儀中にも葬儀後にもフラフラ彷徨っている故人の霊も見ております。
実際に見た酷い例としては、葬儀から数か月後に嬉々として形見分けしている親族達を凄い形相で睨み付けている霊を目撃しました。かなり高価な形見が多数あったのです。遺影に写っている穏やかな顔とは大違いでした。物への執着が強く残ったままの故人だったのでしょうね。
Y君から聞いた話ですが、葬儀後の数か月間、愛人に付き纏っていた霊もいたそうです。


戒名が無駄とは申しません。
檀家でもなく信者でもなく全く御布施もしてこなかった故人の葬儀にそれなりの御布施をして戒名を頂くのはたとえ僅かであっても故人の功徳となり供養となります。
生前に多少の善行を為し、概ね正しく生きていた方であれば、葬儀や戒名を頂く事が更なる功徳となるわけですから成仏も出来る可能性は上がるのでしょう。
数多の善行を為して正しく生きてきた方ならば、戒名が無くとも、たとえ葬儀がなされなかったとしても成仏される方もいるのでしょう。
ただ、悪行を為してきた方では、御布施をして戒名を頂いても少々の減刑という所でしょう。

戒名は供養の一つでしかないと思っていた方が正解でしょう。戒名を頂いたからと言って即成仏できるわけではないのです。

posted by 未熟な修行者 at 23:12 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

拒絶される神社もあります

2016年12月08日

一つ前の記事で素晴らしい神社と出会えた事を書きましたが、それとはまったく逆の場合もあります。

とある神社にお詣りに行った時の事です。
偶然、通りがかって見つけた街中にある小さな神社でした。
道路から見る限りでは、荒れている感じも嫌な感じも無く、古い小さな神社の割には綺麗に見えました。
社務所はありませんでしたので何処かの神社の兼務で、きちんとお祀りされているのかも知れません。

ついでと言ったら失礼ですけどお詣りしていこうと思いました。

ただ、手水舎はあるのですが水は出ておりませんでした。
粗塩も持参しておらず、仕方ないので浄めないままですが、御挨拶だけでもと思って祠の前に進んだのです。

すると急に、耳鳴り、目眩、頭痛が起き、どんどん酷くなっていきます。

最初、ひょっとしてこれは脳血管の病気では、と思ったのです。
人のいない境内の中で意識を失ったりしたら大変だと思いましたので、何とか境内から出ました。
ところが、不思議な事に境内から出た瞬間に症状がすっと軽くなりました。
念の為に道路脇でしゃがみこんでいたのですが、数十秒で完全に治まりました。

何だったのかと不思議に思ったのですが、やはり御挨拶だけでもと再び境内に入ろうとすると鳥居の前で既に拒絶されている感じを受けます。目の前に刃物を突き付けられているような進むに進めないという感覚が一番しっくりくると思います。
<これは絶対に入ってくるな、と言われているなぁ>
と思ったので、鳥居の前で手を合わせて頭を下げるだけで、その場を後にしました。

ついでと思ったのが失礼だったのか、浄めなかった(浄められたらしてますが)のが失礼だったのか、もしくは御先祖様と何らかの因縁があるのか。

よく分かりませんが拒絶される事は稀にあります。
鳥居の前で拒絶される感じが凄くて参拝を断念した事が2度ほどあります。
ただ、数日後に同じ神社に行っても何も感じない事もあるので、霊が見える時期があるのと同じように、神社でそういう事を感じやすい時期というのもあるのかも知れません。自分でも分かりませんけれど。

境内に入った瞬間や参拝直前に急に体調が悪くなる等の影響が出る事はまずありません。基本的には神様が奥に引っ込んでしまうくらいですね。
たいていそこまで酷い事にはなりませんので
「あれ?何か嫌がられているかな、まぁ大丈夫だろ」
と参拝してしまい、神様が奥に隠れちゃったと感じた事もあります。

直接障りがあるのかは試した事はありませんが、中には牛肉や豚肉、魚、卵、乳製品などを食べて参拝してはならない神社もあるようで、そういうルールを破っていながら忘れていただけかも知れません。

念の為ですが、あまりに拒絶が強いと感じた場合には素直に引き下がった方が良いかも知れませんね。

posted by 未熟な修行者 at 00:41 | Comment(18) | TrackBack(0) | 日記

とある神社が凄かった

2016年11月30日

熊野神社と付く名の神社は日本全国にあり、熊野三山の祭神を勧請された神社であるようです。
随分前になりますが、私が行ったのは都内二十三区のとある場所にある熊野神社です。

街中に残る小高い山(丘?)の上にあり、正参道はかなりの勾配の石段と舗装されていない土の地面もありました。
実は、正参道の場所がよく分からず、舗装された道路の方からも行けるため、そちらから行ってしまいましたが。(笑)

空気が清浄な感じと言うか、ピンと張り詰めた感じと言うか、ともかく境内に入った瞬間に
「おおっ、ここ凄い」
と思う場所でした。まさに神域と言う感じです。
周りは普通の住宅街なのですが、一歩入っただけでここまで明らかに空気が違う神社はそれほど多くありません。

そんな空気を楽しませて頂きつつ、きちんと拝殿でお詣りさせて頂きました。
ここは是非とも御朱印も頂いておかねばと思い、社務所に行ってみたのですが神主さんはお留守。でも御家族の方に親切に対応して頂けました。

御朱印を待っている間にあちこち見て回っていたのですが、ふと気づくと私のすぐそばに真っ黒な蝶が飛んでおります。面白い事にウロウロしている私につかず離れずの距離でずっと飛んでいるのです。
カラスアゲハ?クロアゲハ?
蝶の種類は詳しく分からないのですけれど、歓迎されているような感じがして嬉しかったですね。

20〜30分程いたのですけれど、私がいる間は他の参拝者の方は来ませんでした。
参拝者がひっきりなしに訪れるというような神社ではなく、主に地元の氏子の方々に大事にされている神社なのかと思います。

パワースポットなんて呼ばれて人だらけで、神聖さもあまり感じなくなっているような場所より余程素晴らしい神社でございました。

posted by 未熟な修行者 at 23:56 | Comment(23) | TrackBack(0) | 日記

神社参拝は午前中がベスト

2016年11月27日

神社にはなるべく午前中、それも早い時間に参拝された方が良いです。
(もちろん迷惑になるような時間は避けるのは当然ですが)

とある神社で思ったのですが、それほど参拝者が来ていない午前中早目の時間だと神聖な感じで空気が清浄な感じがするのですが、午後になるとまったくそういう神聖さが感じられなくなる神社が結構あります。
特に参拝者が多く訪れる所ほど、それが顕著だと思います。

参拝者の穢れが残るからでしょうか。
この場合の「穢れ」とは汚いと言う意味ではありません。穢れは自然に発生するもので精神的にも伝染すると言われます。他人からの嫉妬や憎悪などの悪感情、逆に自分から他人への悪感情も穢れの一つと言えます。

神道では穢れを極端に嫌います。
特に死の穢れには敏感で、近親者の死があった場合にも決められた日数は参拝しないのがルールです。
イザナギノミコトが亡くなったイザナミノミコトに会いに黄泉の国に行き、なんやかんやあって(知らない方は日本神話を見て下さい)この世に逃げ帰ってきてすぐに海で死の穢れを洗い清めています。その際には最初に災厄の神が二柱生まれています。
神道でのお葬式は神葬祭と言いますが、これも神域内では行なわないくらい死の穢れは特に遠ざけます。
(ちなみに仏教では死を穢れとしておりません)
血も死を連想するために穢れの一つとされ、出血のある怪我をしている人、女性で月のものが来ている方(女性蔑視するわけではありません)は本来参拝は避けるべきというのがルールです。

血や死の穢れがある場合は参拝しないので、それらは別としても先に書きましたように人間は生きているだけで様々な穢れに触れてしまいます。
穢れを落とすために手水舎で浄めるのですが、それをしない参拝者も多くおります。
そんな参拝者が多く来れば神様も遠ざかって本殿の奥に引っ込んでしまい、神聖な感じも無くなってしまうのかも知れません。
柏手を打とうが鈴をガラガラ鳴らそうが神様は出てきてくれないでしょう。

なので、参拝者の少ない午前中早目の時間に参拝するのが一番良いです。

posted by 未熟な修行者 at 23:29 | Comment(15) | TrackBack(0) | 日記

他宗派を罵るのは主に信者

2016年11月22日

承認せず即座に削除しておりますが、他宗派を信仰されていらっしゃる信者の方から暴言や罵りとしか思えないコメントを頂く事もごく稀にあります。

怪しげな新興宗教は別ですが、私自身は他宗派どころか他宗教も無信仰の方も否定するつもりはありません。
何度も同様な事を書いておりますが、基本的には他人に迷惑をかけず正しい生き方を実践されているのであれば誰が何を信仰しても、仮に無信仰でも自由だと思っています。

仏教界も基本的にはそういう前提です。仏教自体が廃れている現在、他宗派だからと言って批難したりすることはやめようではないか、と言う流れになっています。反発しているところもあるようですが大勢がそういう状況です。

実はこういった流れに従いたくない人と言うのは一般の信仰者だったりします。
他宗派の教義の一部を曲解し勝手な拡大解釈をし、それを論って批難する方も多くおります。
驚くべき事に、お寺のお坊さんやその御家族に対してまで、この宗派のこういう所がいけないなどと堂々と批難する方もいるそうです。

宗派以前に、まず仏教徒として考えてみて頂きたいものです。
そもそも仏教には他者を悪く言ってはいけないという教えがあります。
それを堂々と破っている時点で仏教徒としては失格です。
自分の信仰している教えはこんなに素晴らしいんだよ、と言うのは大変良い事だと思います。
但し、その為の理由付けとして他者を貶める言葉を並べるのは最悪の行為です。

真言宗系を嫌っている宗派であっても、私は否定するつもりはありません。
申し訳ないながら私個人としてはその宗派を信仰しようと思わなかっただけであり、それは些細な考え方の違いにしか過ぎないのです。
たったそれだけの事ですから、その宗派を悪く言うのは心から信仰なさっている方に対して大変失礼な事だと思いますし、そもそも仏教では悪く言ってはいけないのですから私は言うつもりはありません。

実のところ、各宗派の開祖には他宗派を下に見る事が多かったのは歴史の上でも明らかです。
真言宗の開祖である弘法大師もその当時の宗派を下に見ておりました事実は確かにあります。(完全否定ではなく古い教えだと言う事なのですが)
どの開祖でも同じですが、野心もあったかも知れませんが、その時代に何とかして教えを広めたいとか切実な思いもあったのではないかと思います。

だからと言って、一信仰者が他宗派を貶める発言をしていいわけではありません。
宗派以前に仏教徒としてそれが正しい事かどうかを考えれば自然に分かるはずです。
他者を貶める発言をしても大変見苦しいだけです。
そういった発言は宗派云々といった小さなことではなく、仏教信仰自体から人が遠ざかる原因にもなりえるのだと言う事、因縁果を考えて頂きたく思います。

本尊とする仏様が違う、教義が違う、色々あるかも知れませんが、他者を貶める事無く教えを守って正しく生きていくのが本来の仏教徒の姿であると思っております。

posted by 未熟な修行者 at 01:29 | Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

体験修行で暴行とか

2016年11月15日

指摘される前に書きます。(笑)

東京の多摩地域にある寺で「体験修行」として預かっている中学生に暴行したとか、更には別の30代男性も住職から暴行を受けたとか。
真言宗豊山派のお寺と住職は言っているそうですね。もし本当に言う通りだとしたら大変残念に思います。

どういう経緯なのか分かりませんので、安易な発言は出来ませんが。

体験とは言え修行ですからそれなりに厳しくても不思議ではありませんが、体験修行で言う事を聞くつもりも修行する気も無い人に暴力をふるう事など普通ならありません。帰ってもらえばいいのですから。

結構な早い時間にネット上でお寺の名前が暴露されてましたが、私は名前すら聞いた事が無いお寺ですので、どういうお寺なのか知りませんし、住職がどういう方かも知りません。
実は出掛けた先で時間が空いた時に近くのお寺に行けるよう、GoogleMapで寺社のマイプレイスマップまで作っているのですが、それにも載っていませんので小さなお寺なのかなとも思いました。
映像で見る限りは結構広いですね。


本当に感覚的なものなのですが、映像で見る限りちょっと違和感を感じます。
本堂がそれらしく荘厳されてはいます(随分簡素です)が
「これ本当にお寺かな?」
という違和感を感じます。
比較的新しい建物のようだからと言う事ではありません。
東京などでは消防法などの関係で、建て替える場合にはビルにせざるをえず、ビルの中のワンフロアがお寺とかも普通にありますし、そういうお寺にも勿論行った事はあります。

ですので新し目の建物だからとかそういう意味ではなく、なんとなく違和感を感じるんですよね。
なんと言えばいいか、仏教らしさを感じないと言いますか、お寺っぽい体裁を整えただけのような印象があります。

お寺と言っているだけで実際は只のセミナーなんじゃないかなとも思えてしまいます。
住職も資格が無く僧侶ですらないか、もしくは破門された人である可能性もあります。

体験修行程度で暴力をふるったり、掃除などならともかく領収書の整理などのようなお寺の仕事を手伝わせるのも異常です。

本当にお寺かどうかはともかくとして、厳罰でいいんじゃないですかね。

posted by 未熟な修行者 at 23:43 | Comment(11) | TrackBack(0) | 日記

数息観はお勧めです

2016年11月10日

しばらく霊の話しばかり書いてしまいましたので、信仰を持つ身としての記事も書かねば。(笑)

私は勤行の前に必ず瞑想(観法)をしております。(勤行の一つとして行なっているのですが)
もう少し詳しく言えば「数息観(すそくかん)」というもので、座禅を組んで腹式呼吸を行ないます。そして文字通り呼吸の数を数えるという「観法」の中でも初歩的なものです。
禅宗で良く行われていますね。修行僧が座禅を組んで瞑想しているアレです。

真言宗では「阿字観(あじかん)」と言う有名な観法があり、本来ではそちらをするべきなのでしょうが、なにぶん家で行なう場合は様々な雑音などでどうしてもうまく出来ないので、一番初歩的ともいえる「数息観」を行なうようにしています。

正式な座禅(結跏趺坐)が出来ない場合には、片足だけをもう片足の太腿の上に載せる半跏趺坐でも構いません。そして右手指の上に左手指を載せて両親指の先端を軽く合わせる「法界定印」という印を組みます。(この印は仏像で見た事がある人も多いと思います)
私の説明だと分かりにくいですが検索すると出てきます。(笑)
他の印を結ぶ時もあります。

数え方としては「ひぃー」、「ふぅー」、「みぃー」という数え方ですが、別に「いーち」、「にー」、「さーん」でも構わないです。
例えば、口から息を吐きながら体の不浄なものが出ていくイメージをしつつ「ひ」、鼻から吸いながら清浄な空気を体に入れるイメージをしつつ「ぃー」、つまり吐く息と吸う息がセットで「ひぃー」になります。
もちろん言葉に出して数えるわけではなく、イメージをしながら更に頭の中で数を数えるわけです。
十(とぉー)までいったら、今度は逆に数を減らして数えています。(私の場合)

具体的に言えばもう少し色々な決まりがあったりもするのですが。

ちょっとしたイメージをしながらではありますが呼吸の数を数えるだけなので簡単そうに思えますが、実際は慣れるまではなかなか難しいです。私も未だに数え間違えたりします。(笑)

ばっちり集中できると30分や1時間くらいはあっという間に過ぎてしまいますので、タイマーなどで時間を設定しておくといいです。最初は5〜10分くらいにしておくといいです。
集中している時にいきなりタイマーの音が鳴ると結構ビックリしますけどね。


瞑想は眠くなる、と言った人がおりました。
おそらく瞑想とは何も考えないと思っているのでしょうが、瞑想とは言っても私のは観法であり何かに一心に集中するものであるため、余程の睡眠不足などでない限りは頭がスッキリします。
意識的に神経を集中していますから眠くならないです。

修行の一環として精神修養の為に行なうものですが、特に信仰を持っていない方でも実践されている方は多いです。
嫌な事があったとか、気持ちが落ち着かない時などにもお勧めなのです。
posted by 未熟な修行者 at 23:15 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

霊園に霊はいっぱいいる?

2016年11月06日

たまに霊が見えてしまう(だけで何も出来ない)私ですが
「見えちゃうと、お墓参りに行ったら大変そうだよね」
なんて事を言われた事が何度かあります。

実を言いますと霊園(墓地)には呆気ないくらい霊はいません。(笑)

霊園というくらいですから霊が一杯いるのだろうと思うのでしょうが、これが想像以上にいないです。見えてしまう時期になっても霊園にいた方が安心なのではないかと思うくらいにいないです。
どんな霊園でも同じとは断言できませんが、普通の霊園で多くの霊を見るなんてことはまずありません。

絶対にいないというわけではなく、ただ単にフラフラと彷徨っているのを見かける事はありますが、これは恐らくその霊園に葬られている人でなく彷徨っている内に迷い込んだだけの関係のない霊です。普通に移動して入ってきて、普通に何処かへ行ってしまいますし。
ひょっとしたら死者が葬られている霊園なら救いがあると思って来ているのかも知れませんが。
フラフラしているのは街中の方が多く、霊園だからと言って特に多いわけではありません。

ちょっと面白い(と言ったら失礼ですが)のは、納骨についてきているらしい霊は何度か見た事があります。
遺族が参列している中にちゃっかり混じっているんです。これすぐに分かるんですよ。何故だかお判りになりますか?
答えは、一人だけ礼服ではないからです。(笑)
たいてい遺族にくっついて行っていなくなるのですが、遺族が帰っても1時間以上そこに佇んでいる霊もおりました。(直視せず目の端でずっと観察してたことがあります)


あと私自身は見た事が無いのですが、お墓を介して出てくる霊を一度だけ見た事があるとY君から聞いた事があります。どうやら、お墓をあの世とこの世を結ぶ出入り口みたいな感じで使ったのではないかと思ったそうです。
でも、一度見ただけなのでお墓がそういう役割で使えるものなのかどうかは分からないとは言っておりましたが。

そしてY君も同じ意見です。
「霊園って、そこらへんより霊いないから静かでいいよね〜」

正直なところ、霊の数としては普通に街中などで見るよりも少ないくらいです。
何度か夜中の霊園に行った事もある(真似してはいけません)のですが、私が行った事のある霊園では特に昼間と変わらなかったです。

posted by 未熟な修行者 at 18:46 | Comment(18) | TrackBack(0) | 日記

自殺者の霊は自殺を繰り返す?

2016年10月30日

頂いたネタです。(笑)

よく言われている事に
「自殺者の霊は、自殺したその場所で自殺を繰り返す」
と言う話があります。

これは少々懐疑的です。と言うのも必ずしもそうではない事が多いように思うからです。
自殺者の霊を自殺現場以外(自殺現場におらず)で見る事もありますし、自殺現場で見てもいつの間にかいなくなっているからです。

Y君からも意見を聞いた事がありますが
「自殺して死ねた事を理解している場合は、自殺現場に留まることは少ないよ〜」
「自殺する事自体に執着があったり、死んでいる事に気付いてなくて自殺を繰り返す霊もたま〜にいるけど、その内存在が消えるね〜」
と言っていました。

延々と線路上で電車を待っている霊や、飛び降り自殺を繰り返している霊を見た事がないわけではないですが、自殺すること自体に執着していない限りは自殺を繰り返す霊などケースとしては非常に稀で、それでも長くても数年で消えてしまう事が多いと思います。

例え自殺し、自分が既に死んでいる事にすぐ気付かなかったとしても
「自殺を繰り返しても何故か死ねない。そうか、実はもう死んでいるからこれ以上死ねないのだ」
と霊も気付きます。そしてフッといなくなります。冗談のようですが本当なんですよ。(笑)
死のうと思って自殺しておきながら、死んだ事を理解できず延々と繰り返すという事自体が少ないです。

とは言え、自殺現場に長期間留まって自殺を繰り返している霊もいないわけではなく、こういう場合には死んでいるかどうかは重要ではなくて、自分の自殺シーンを見せつける事で悲しみや苦しみを他人に分からせたいと言う事に執着しているように感じます。それでもいずれ消えていきます。存在が薄くなっていく感覚です。
死ねば楽になると思って自殺した場合には霊として留まる事も少ないように思います。

非常に執着が強い霊の場合には自殺に限らず、割と長い間留まっているのもいるにはいますが、厄介な事に元人間という観念も既に通用しなくなっている霊もいます。執着だけ残ったような所謂「悪霊」のような感じになりますね。
「こういうのは説得しても無理なやつ」
とY君も言っていました。
念の為言っておきますが、こういうのは本当に滅多にいません。生きた人間の社会で言えば連続殺人犯みたいな凶悪犯罪者のようなものです。そんな人は身の周りにはまずいませんよね。
でも、この手のものもいずれ自然に消えるのが殆どです。

どちらかと言えば自殺より、不慮の事故死や、独り暮らしで突然死など、そういう方がその場に長く留まっている気がしますし、ケースとしても多い気はします。
自分が死んだ事も分からず、ましてや死の覚悟をして亡くなったわけでも無いので色々な執着も残ったままです。それでも、その内に自然に消えてしまう事が大半です。


宗教宗派によっては
「自殺すると成仏できず彷徨うことになる」
「自殺すると自殺現場から離れられなくなる」
などのような教えをする事があり、そもそもは自殺をやめさせるための教えであると思われます。
そういった教えがあるという状況で、更には短い期間であっても自殺を繰り返している霊を見た人がいた為に、自殺者は霊として留まり延々と自殺を繰り返すという説が出来たのかも知れません。
実際に見えてしまう立場からすれば、自殺を繰り返す霊がいたとしても長くて数年、たいていは数日から数週間だけで、自殺現場で霊が永久に自殺を繰り返す事もその場にずっと留まる事もありません。

永久に自殺を繰り返したり自殺現場から離れられなくなるのなら、数十年来の自殺の名所などと呼ばれる場所では絶え間なく霊が自殺してたり、数え切れないくらいの霊が見えてしまう筈です。
仕事で自殺が多い団地に行ったり、自殺の名所でもある観光地に行ったりしても、そんな状況になっている所など見た事ありません。せいぜい死後数か月くらいの霊が一体いるかどうかですね。


言い訳がましいと思われるかも知れませんが、念の為に仏教信仰者の立場から言っておきます。
仏教には「殺生をしてはいけない」という教えがありますが、これは他人の命は勿論、自分の命に関しても当てはめて考えるべき事で、自殺とは自分を「殺生」する事に他なりません。
それに自殺は家族親族には勿論、他人にも想像以上に多大な迷惑をかけてしまいますから、そういった意味でも罪(仏教的な意味での)は重いです。
自殺して現世の苦しみから逃れたつもりでも、来世ではもっと苦しむことになります。
運よく来世も再び人間として生まれ変われたとしても、自殺と言う業を背負っているのですから更なる苦しみを味わうことになります。
それならまだマシな方で、それ以下の地獄道や餓鬼道に生まれ変わって現世以上の苦しみを受ける可能性も高いのです。
自殺すれば安楽になれるわけではありません。数多くの大きな罪を背負う事になると断言致します。
誤解無きよう御願い致します。

posted by 未熟な修行者 at 22:58 | Comment(28) | TrackBack(0) | 日記

横断してました

2016年10月27日

ゆっくり記事を書いている時間がないので簡単に。

本日、仕事帰り、3車線の道路で赤信号で停止していました。
私の前にも4台ほどの車がいます。先頭で信号待ちではありません。

車道の信号が青になる少し前に、濃い茶系の服を着たお爺さんが交差点の先で横断し出したのが見えました。
横断歩道があるのですが、よく急いで渡ろうとする方がやるように少し離れた所から斜めに横断歩道に向かうように渡り出したのです。足元が覚束ないのかそれほど早い歩行速度ではありません。

<もう信号変わるのに、大丈夫かな>
と思った瞬間に、車道の信号が青になり3車線とも一斉に車がスタート。

<危ない!>
と思ったのですが、躊躇することなく3車線とも車はスピードを上げます。
が、何事も起きません。


・・・はい、霊だったようです。
お爺さんの姿などどこにも見当たりませんでした。

いや〜、生きている人にしか見えませんでしたので非常に焦りました。

今日はそのお爺さんを見ただけです。
見える期間になるわけではなく、1体だけを見て終わりと言う時がたまにありますが、今日(もう昨日か)はそのパターンだったようです。

めちゃめちゃドキドキしましたよ(汗)

posted by 未熟な修行者 at 00:59 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

自称霊能者その3

2016年10月21日

続きです。


そして霊能者は何だか訳の分からない除霊の儀式を始めました。テレビで見るようなやつです。
小声でブツブツ言って、途中で大きめな声で「エイッ」だの「ハッ」だの言っています。

私達は苦笑を通り越して、ばれないように失笑を押し殺します。
だって、除霊の儀式が行われていると言うのに、その霊は部屋の中を相変わらずウロウロしているのです。

30分程やっていたでしょうか。
もう苦笑も失笑も通り越して馬鹿々々しくなって、すっかり飽きてました。

霊能者が
「これでとりあえず祓えました。ただカルマの浄化が終わるまでは、またとり憑かれてしまうかも知れません。気長にやっていきましょう。3日後のお昼くらいにまた来ますので」
と言って、幾らだか知りませんが謝礼を受け取ると帰っていきました。

Sさんが
「除霊できてますか?」
と聞いてきて、Y君が
「ぜ〜んぜん、まだここにいますよ〜」
確かに私たちの傍にいます。(寄らないで欲しいのですが)
「やっぱり、そうなんですね。兄の様子も一向に変わらないし」

霊能者を見送った、Sさん兄妹の母親も戻ってきました。
「全然、除霊されてないって」
とSさんが言うと
「えー、ほんとに?インチキだったのかしら」
と母親。
「インチキかは分かりませんけど見えてなかったみたいですよ〜。さっき霊能者の目の前にいたのにお兄さんの背後を指差して、そこにいる、って言ってましたね〜」
とY君。
「まだいるってことですか?」
母親の言葉に、私とY君が揃って
「今はそこにいますよ」
同じ所を指差しました。

「△△△さんって、かなり歳いったお爺さんなんですよね? でも、お兄さんに憑いているのは60代くらいのおばさんだけですけどね〜」
とY君が言うと、母親が
「え?どんな人?」
「髪は長さがこれくらいで〜、身長はこれくらいで〜、体格がこんな感じで〜」
と身振り手振りで説明します。
「名前は分からないかしら?」
と母親が言った途端
「××(女性名)・・・」
と聞こえました。
私とY君がまたも揃って
「××って名前みたいですけど」
と言うと、Sさん兄妹の母親とSさんも驚いたような顔をします。
「あ、心当たりあります?」

その心当たりについて説明してもらえましたが、それについて詳しく書けません。(すみません)
非常にざっくり言えば、勘違いしていた△△△さんと言うのは、Sさん一家と仲違いしてほぼ絶縁状態のまま亡くなったのだが、気が咎めたこともあり一家で葬儀には出たそう。
××さんはSさんお兄さんにゆかりのある方でちょっとした誤解が残ったままで△△△さんよりも1日遅れて亡くなられた、おそらくかなり心残りのままだろうということです。
(すみません、全然わかりませんよね><)

「なるほど〜、××さんは誤解したまま心配でここにいるのかね〜」
とY君。
「△△△さんはいないんですか?」
と未だ心配そうな母親。
「いませんね、そっちは大丈夫だと思いますよ〜。それより××さんに離れてくれるよう俺が説得しましょうか〜?」
「できるんですか?」
「たぶん、できると思いますよ〜」
「ぜひ御願いします」
「じゃ〜、ちょっとやってみますね〜。あ、玄関開けといて〜」
私が玄関を開けに行って戻ってくると、Y君があまりしない真面目な顔をしています。
十数秒くらいでしょうか。
すると、す〜っと××さんの霊は玄関から出て行きました。

「はい、おわり〜。やっぱり心配で憑いちゃったみたい。と言うか憑く気はないんだけど離れられなかったみたい。誤解だと納得できたら離れられたみたいよ〜」
「え、もう?お経とか唱えるんじゃないんだ?」
とSさんと母親はビックリ。
「俺お経とかよく知らないし〜。強制的に離れさせてもいいんだけど、死にたてホヤホヤだし話せばわかるかな〜って」

ふと見ると、今まで何の感情も顔に出ていなかったSさんのお兄さんは泣いていました。
誤解させたままだったことが申し訳なかったと言って泣いています。
心なしか顔色は良くなっています。
「これで大丈夫〜、あの霊能者はもう来てもらわなくていいですよ〜」

Y君は母親が謝礼を渡そうとしてくるのを
「実費がかかったらその分は頂きますけど実費かかってないし、商売ではないんで〜」
と何とか固辞して、私と一緒に帰りました。

Sさんのお兄さんは翌日には見違えるように元気に戻り、数日後には××さんの仏壇に御線香をあげに行ったそうです。その後は何事も無いようです。


ちょっと書けない事が多すぎて、よく分からない話になってしまい申し訳ないです。(笑)
実はこの霊能者とは他でも会っています。

posted by 未熟な修行者 at 08:58 | Comment(14) | TrackBack(0) | 日記

自称霊能者その2

2016年10月18日

続きです。


そして霊能者登場。
まだ割と若い女性の霊能者です。(テレビにも出た事あるそう)
Sさんのお兄さん、そして私とY君がいる部屋に入ってくるなり、その霊能者は顔をしかめました。

Sさん兄妹の母親が、お兄さんを紹介すると
「質の悪いのが憑いていますね」
そしてSさんの背後を指差して
「そこにいます、〇〇さん(Sさんのお兄さん)の左後ろにいます」
と言い出しました。

私達は苦笑を堪えるのに必死です。
なぜなら、その時は憑いている女性の霊は霊能者の目の前にいて、霊能者の顔をじーっと覗き込んでいたからです。

母親が
「やはり、△△△の霊ですか?」
と聞くと
「仰る通りそのようですね」
と言います。
しかし、△△△は80代で亡くなった男性だそうですから、実際憑いているのはその人の霊ではありません。
続けて
「息子さんがとり憑かれるのは前世の悪行のせいで背負ったカルマによるものだから、除霊と共にそのカルマも綺麗に浄化しなければならないです」
と言い出しました。

残念ながら私自身には前世を見るなどという能力はありませんので、とり憑かれやすくなるカルマがあるのかどうかは分かりませんが、確かにとり憑かれやすいと言う人はいます。
しかし、赤の他人がカルマを浄化するなどと言う事は無理です。

カルマは「業」とも言い、「自分で行なった行為」もしくは「その結果」の事で、もっと分かりやすく言えば「自分の行為で背負った宿命」とでも言いましょうか。
「因果応報」と言うように悪い行ない・善い行ないに対してそれぞれの報いがあるとされており、悪い行ないをして悪いカルマを背負っているのであれば、本人が善い行ないをしてカルマを浄化するしかありません。赤の他人がどうして来世にまで持ち越されるようなカルマを浄化できると言えるのでしょうか。
実刑を受けている犯罪者に対して、他人が「その実刑は今日で終わり。前科としても無かったことになる」と言うようなものです。

自分で原因を作ってしまって来世まで持ち越したカルマを解消できるのは本人だけであり、他人のカルマを解消できるわけがありません。
前世の因果によるカルマの解消は、本人が現世において善い行ないをし正しく生きるしかないのです。

それはともかく・・・
その時点で憑いている霊はSさんの傍にいましたので、見当違いの方を見つめながら妙な発言をしているのが私とY君には可笑しくて仕方ありません。

母親が神妙に頷いて
「お願いします、何とかして下さい」
と言うと
「一度では無理です。ともかく今日は除霊をして、後日数回に分けてカルマの浄化をすることにしましょう」
と言い出しました。
「わかりました。お願いします」

またまた続きます。

posted by 未熟な修行者 at 00:12 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記