自称霊能者その2

2016年10月18日

続きです。


そして霊能者登場。
まだ割と若い女性の霊能者です。(テレビにも出た事あるそう)
Sさんのお兄さん、そして私とY君がいる部屋に入ってくるなり、その霊能者は顔をしかめました。

Sさん兄妹の母親が、お兄さんを紹介すると
「質の悪いのが憑いていますね」
そしてSさんの背後を指差して
「そこにいます、〇〇さん(Sさんのお兄さん)の左後ろにいます」
と言い出しました。

私達は苦笑を堪えるのに必死です。
なぜなら、その時は憑いている女性の霊は霊能者の目の前にいて、霊能者の顔をじーっと覗き込んでいたからです。

母親が
「やはり、△△△の霊ですか?」
と聞くと
「仰る通りそのようですね」
と言います。
しかし、△△△は80代で亡くなった男性だそうですから、実際憑いているのはその人の霊ではありません。
続けて
「息子さんがとり憑かれるのは前世の悪行のせいで背負ったカルマによるものだから、除霊と共にそのカルマも綺麗に浄化しなければならないです」
と言い出しました。

残念ながら私自身には前世を見るなどという能力はありませんので、とり憑かれやすくなるカルマがあるのかどうかは分かりませんが、確かにとり憑かれやすいと言う人はいます。
しかし、赤の他人がカルマを浄化するなどと言う事は無理です。

カルマは「業」とも言い、「自分で行なった行為」もしくは「その結果」の事で、もっと分かりやすく言えば「自分の行為で背負った宿命」とでも言いましょうか。
「因果応報」と言うように悪い行ない・善い行ないに対してそれぞれの報いがあるとされており、悪い行ないをして悪いカルマを背負っているのであれば、本人が善い行ないをしてカルマを浄化するしかありません。赤の他人がどうして来世にまで持ち越されるようなカルマを浄化できると言えるのでしょうか。
実刑を受けている犯罪者に対して、他人が「その実刑は今日で終わり。前科としても無かったことになる」と言うようなものです。

自分で原因を作ってしまって来世まで持ち越したカルマを解消できるのは本人だけであり、他人のカルマを解消できるわけがありません。
前世の因果によるカルマの解消は、本人が現世において善い行ないをし正しく生きるしかないのです。

それはともかく・・・
その時点で憑いている霊はSさんの傍にいましたので、見当違いの方を見つめながら妙な発言をしているのが私とY君には可笑しくて仕方ありません。

母親が神妙に頷いて
「お願いします、何とかして下さい」
と言うと
「一度では無理です。ともかく今日は除霊をして、後日数回に分けてカルマの浄化をすることにしましょう」
と言い出しました。
「わかりました。お願いします」

またまた続きます。

posted by 未熟な修行者 at 00:12 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

自称霊能者その1

2016年10月14日

書くかも知れないと言いながら、言った事自体を綺麗サッパリ忘れていました、すみません。(笑)

以前、この記事で少し書きましたが、某自称霊能者がまったく霊を祓えていないのを目撃した事があります。

詳しく書こうとすると個人的な情報も書かなくてはならないので、あまり詳しい事は書けません。

発端は私の友人からの連絡で
「知り合いのSさんのお兄さんが霊にとり憑かれた感じで・・・云々」
という事でしたので
「ならば、Y君に頼んでみようか?」
彼はY君の話は私から聞いていて知っていますが面識はありません。
ところが
「既に親御さんが知り合いの伝手で霊能者を頼んでしまった、ただ不安なので当日は君に立ち会って欲しい」
との事。
「いやいや、待って、待って。見える時があるというだけで何も出来ないから、Y君も一緒にいた方がいいと思うよ。Y君の都合を聞いてみないといけないけど」

正直、Y君がいれば何かあっても何とかなるでしょうが、何も出来ない私一人が立ち会うのは絶対にパスです。(笑)
そういう訳で、私がY君に連絡を取ってみると、当日は仕事が休みだそうで立ち会えるとの事でした。

当日、待ち合わせ場所で会うなりY君が
「あ、今は見えない時期か〜」
と言うなり、周りをキョロキョロ。

詳細は省きますが、Y君は私が見えるようになるきっかけが分かっており、私の苦情をものともせずに強引に私が見えてしまう時期に突入させてくれます。逆に見えなくする事は出来ないのが大変ありがたくないのです。
そして迷惑千万なことに強制的に見えるモードにされました。(泣)

そしてY君と私はSさん宅に到着。霊能者はまだ到着しておりません。

とある理由で(これは書けません)霊にとり憑かれているのだと思った母親が伝手を頼って霊能者に除霊を依頼したそうです。
Sさんは、友人(私に連絡してきた人)から霊の見える知り合い(私とY君)がいるという話を聞いていた事を思い出し、その友人に相談。その友人が私に連絡してきたというわけです。

まずは、Sさんのお兄さんにお会いしました。
つかず離れずついて回っている霊がいました。60代くらいの陰気そうな女性です。
Sさんのお兄さんは、満足に食事も取れず、夜も何かに怯えているようで眠れず、会社にも行けなくなり、僅か数日でげっそりと痩せてしまったそうです。
しかし予想していたよりも凶悪そうな霊ではありません。

「そんなに悪くはなさそうだよね?」
と私が聞くと
「だね〜、なんとなく憑いてきちゃいました〜って感じだね〜」
とY君。
「これくらいならすぐに祓えるだろ、祓ってやったら?」
「ん〜、でも霊能者頼んでんだよね〜。任せときゃいいんじゃな〜い」
と言う訳で霊能者のお手並み拝見と言う事になりました。

ちなみに私達は見える人だと言う事を伏せて只の友人としておくよう、SさんとSさん兄妹の母親には口止めしておきました。


長くなったので続きます。

posted by 未熟な修行者 at 00:26 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

本当はいけないのです

2016年10月07日

この記事とかこの記事などは、見た感じ議論めいた説明を記事にしておりますが本当はいけないことなのです。
何の話しかと訝しく思われるかも知れませんが、私の宗旨では議論はいけない事とされています。

正確に言いますと戯論(けろん)がダメとされています。
戯論とは言葉をもてあそぶに過ぎない無意味で無益な言論の事で、愛論と見論の2種類があります。

愛論とは一見いい言葉のように見えますが、仏教では渇愛という欲望の対象での愛を示しています。
この場合での議論を避けると言う事とは直接的には関係ないので省きます。

見論ですが、見論の「見」は悟りの智慧の完成したものではなく「見識」や「見解」などのような中途半端な知識による独善的な意見のことで、それによる無益な議論の事を見論と言います。

この見論は社会の中でもよく見かけるのではないでしょうか。
会社での会議などでも多くあるでしょうし、ネット上には言うまでもなく多く溢れていますね。
相手の発言を抑え込むように自己主張を繰り返し、挙句の果てには本題からも外れて議論のための議論を不毛に積み重ねるなどもよく見かけると思います。

私はこの見論を避けます。宗旨の一つですから。
「では、ここではお前の意見ばかりじゃないか」
と思われるかも知れませんが、このブログは私の場所ですからそれは御勘弁頂くほかありません。
私がここに記事を書くのは議論をしようと思っているわけではありません。
明らかな間違いなどの御指摘は有り難く頂戴致しますが、少々挑発的な反論コメントを頂いたとしても無意味な言葉のやり取りになってしまいかねないと思った場合には
「なるほど、そう考えているのか。まあ別にいいか」
と反論はあって当然と考えるようにして、説明出来ることであれば説明は致しますが、議論までにはならないよう気を付けております。
私が書きたい事を書いているだけですので、私の記事に同調しろと言うつもりはまったくありませんし、私の意見を押し付けるようなこともするつもりはありません。

例えばこの記事に対しての反論を頂いても、もちろん最初から議論をするつもりはないわけですが、仮に信じている私と信じていない方が議論したところで平行線を辿ったままで結論など出るわけがありませんから、無益で無意味な議論になるだけです。つまり見論なのです。

宗教関係のブログなどを書いている方の中にも自分の信仰を守るためなのか否定コメントに対して過敏に反応して悪口雑言の議論になっている所もありますが、特にその宗教が仏教であればもうその時点で教えの初歩の初歩で基本中の基本に反しているわけですから、まともな方から見れば本当の信仰をしているとは見えず状況によっては妄信的とも思ってしまいます。
自分の信仰をまるっきり否定されれば反論したくなる気持ちも分からないではないですが、するべきではないとされているのが仏教です。

もっとも、ここは私が好き勝手な事を書いているだけで、議論が必要なほどの内容はありませんけれど。(笑)

posted by 未熟な修行者 at 23:26 | Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

御朱印を転売って(笑)

2016年10月03日

そういう事する人も出てくるのでは、とちょっとだけ思った事はありましたけど。
まさか本当にネットで転売する人がいるとは思いませんでした。(笑)
もちろん転売する側も何を考えているのかと思いますが、どちらかと言うと購入する方の人の気持ちが分かりませんね。

私自身は参拝していない神社仏閣の御朱印を手に入れようとは思いませんし、そんな手段での入手など畏れ多くて。
世の中には色々な人がおりますから本当にコレクション感覚の人なのでしょうね。(汗)

世の中にある他のコレクションと同列として考えると、御朱印をコレクションして何する気だ、参拝して僅かなお金を奉納すれば手に入るのに参拝してもいない御朱印を集めて何の自慢になるのか?と思いますが。


神社仏閣は不快感を示しているそうですが、転売を完全にやめさせる妙案もなく苦慮しているそうです。

本来は参拝して頂くものですけど、プラス郵送料くらいで希望者に発送しちゃってもいいのではないかと思います。地方発送OKみたいな。(笑)
プラス郵送料くらいで発送して貰えるのなら転売なんて不心得者も淘汰されるでしょうし、入手が手軽になる事で神社仏閣は収入増もあるのではと思います。
コレクション目的の人は予想以上に大勢いて、参拝もせず御朱印だけ貰って帰る人や、最低限のマナーも守れない人が多いのですから、この際それでもいいのではないかと。
この際に注意する点としては、参拝して頂く御朱印と、発送する御朱印は全く同じものにしておかないと意味はありませんね。

もちろん私は地方発送OKになったとしても、参拝していない神社仏閣の御朱印を入手する気はありません。コレクション目的ではありませんから。


地方発送なんて罰当たりな、と思うのであれば、必ず参拝者に身分証明書を提示させて、その人の名前を書き入れてしまうとかもいいのではないかと思いますね。
芸能人などのサインにもあるように「〇〇さん江」みたいに(笑)

元々は納経の証に頂けるものでしたから、写経したお経を納めた証として御朱印を頂くと言う本来の姿に戻っても私個人としては一向に構わないくらいです。
でも、そうなると御朱印を頂く人は一気に減るでしょうね。(笑)

posted by 未熟な修行者 at 21:47 | Comment(16) | TrackBack(0) | 日記

いないという根拠

2016年10月02日

霊なんて信じない、神仏も信じない、という人がこんな事を言っておりました。
「蚊とかハエとかゴキブリとか殺すけど、そういう虫の霊は見た事無いだろ!!」
「牛や豚や鶏や魚だって毎日多くが殺されているのに、そんな霊はいないだろ!!」
「神や仏なんてのは想像の産物、神社やお寺に行ったって人生何も変わらないだろうが!!」
「科学的に証明されていないだろう!!」

実際の所、虫だと言い切れる霊を見た事がありません。
虫の場合には、死んだ瞬間に本当に只の死骸だけになる事が多いのです。

私が子供の頃には、面白半分に虫を残酷な方法で殺してしまう子供も多くいました。
殺さなくてもいい虫を殺している悪ガキも多く、私が見えてしまう時期に無闇に虫を殺している場に居合わせた事もありますが、呆気ないくらい何も感じないのですよね。

魚の場合も何故か虫に近いです。

何故なのかよく分かりませんが、もしかすると生きて次の世代に子孫を残す本能だけしか無いからなのかも知れません。

牛や豚、鶏の場合ですが、牛は霊のようなものを私も見た事はあります。豚は見た事ありません。
鶏ではありませんが、ペットとして飼われていたインコなら見た事があります。ですが悪意は感じませんでしたし、すぐに消え去りました。
ひょっとすると豚も鶏も私の住んでいる近くにはいないから見ないのかも知れません。牛のような霊も地方で見たことがあるだけですし。

犬や猫の霊は見えることもありますが、多分それらはペットだと思います。(首輪も見える時があるから)
おそらくですが、飼育されている、もしくは野良であっても人間に密接に関わっている動物なので執着があるからではないかと思います。

虫、魚、牛、豚、犬や猫も畜生道の生き物であるから、基本的にはすぐに転生しているのかもしれないですね。
それらの生き物であっても何か執着があれば霊としての存在で留まろうとするのかも知れません。
ですが、人間以外だとすぐ消えてしまうことが大半な気がします。


寺社仏閣に行っても何も変わらないと思うのは、最初からそういう気持ちで蓋をしてしまっているからです。
一説によると日本人は生活習慣などによって幼少期に神仏に対して恐れの心が潜在下に出来上がることが多いため、神仏を認めてしまう事で恐れが現実になるのを避けたがるのだそうです。
やましい事がある人は特に顕著で、恐れがあるから殊更声を上げて信じない強弁するそうです。
恐れを現実にすることを避けているので、本人は恐れによって強弁している事すら自覚しておりません。

神仏を信じないと言う人でも霊の存在は信じる人が意外と多いのは面白い点なのですが、神仏は神社仏閣にいるものと考え、自らが線を引いて近付くこともなく神仏を信じないことで恐れから遠ざかろうとします。
その一方で霊はそこらにおり、場合によっては避けようがないという認識の為、信じることで覚悟を決め恐れを和らげようとするのだそうです。


科学的に証明と言ったところで、科学的に証明されていないことなど世の中には山ほどあります、逆に証明されている事の方が少ないのが事実です。
この現象の理由はコレコレこういう事、故にこちらの現象の理由もコレコレこういう事で説明がつく、という現時点での推論でしかない事も非常に多くあるのです。
目に見えている地球上の事ですら、推論は出来ても解明されていない事が多いので、科学的に証明云々と言うこと自体に意味がありません。
そして科学で証明できていないものだからこそ余計に恐れ、声高に否定しようとするわけです。


霊なんて信じないと言われても、私は現実に見えてしまう時があるわけです。
だからと言って信じていない人に信じろと言うつもりはありません。見えないのであれば信じろと言ったところで難しい事ですから、言うつもりもありません。
霊も神仏も信じろとは言いませんし、信じないのならそれはそれでいい、としか思いません。
信じていない方の中にも人間的に素晴らしい方は大勢いらっしゃいますし。

ただですね、そんな必要もないのに無闇矢鱈と声高に否定する方は
「あ、怖いのかな、そんなにムキになって否定しなくてもいいのに」
と思ってしまいます。

posted by 未熟な修行者 at 01:26 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

信仰心と祈願

2016年09月29日

コメントで質問がありました。
とても個人的な内容でしたのでコメント公開の承認はしないまま、この記事を回答とさせて頂きます。

神社仏閣(と言うか神様仏様)にお参りして祈願する時、心から信じてお参りされていらっしゃいますか?
深い信仰とは言えないと言う方が大半でしょうし、別に信じてはいないと言う方もいらっしゃるでしょう。
過去記事にも何度か書きましたが、信仰が無いのは別に構わないと思います。

信仰が無いから願わないというならまだしも
「願いなんて叶った試しは無いから神仏は信じない」
と言う方も割といらっしゃいます。残念な事です。
願いを叶えて貰わなければ信仰しないと言う事で、宗教に対しての姿勢としては良くありません。
願いが叶わないから信じない、というのは喩えて言うなら
「入社したら一生懸命働くから先に生涯給与を全額くれ。くれないなら入社しない」
と言っているようなものです。これは誰がどう考えてもおかしな言い分だと思う筈です。

先に褒美をチラつかせて人心を従えさせようとするのは、悪魔や魔物などによる誘惑としている宗教が多いですし。


祈願する時には心から信じて祈願する方が良いのは当然ですが、それほど深い信仰心ではないけど、と言う方でも上記のような方よりは遥かに良い姿勢です。
人間ですから
「深く信仰している訳ではないから叶えて貰えないかも・・・」
と迷いや諦めの心が出ても不思議ではありません。
神仏は人間に迷いが多いことなど当然知っています。迷いの中にある少しの信仰心を慈しんでくれますので祈願してもまったく無駄と言う事はありません。

神仏を信じて叶えて貰えるよう祈願していても日頃の行ないが伴なっていない場合には無駄です。
正しく生きていない者はどんなに神仏を信仰していてもダメなのです。(それを信仰があると言えるかは別です)
ただ、必ずしも正しく生きられない者であっても、正しく生きようとしている者は救いがある場合もあるでしょう。


実際のところ、深い信仰を持っている人が祈願しても必ず叶うとは限りません。
深い信仰があっても、神仏は個人的なことだけでなく世界的宇宙的な視野で観て、長期的なスパンで物事を考えると言われておりますので願ってすぐ叶うとは限りません。
そろそろ叶えてやるかと神仏が思った時に、信仰心の欠片もなく悪い生き方をしていれば却下となるでしょうし、願いを叶えることが為にならない場合にも却下でしょう。
正しく生きる努力をし、願いが叶うよう自分でも出来る範囲の努力をする、だから何時か必ず叶えて貰える、と信じて祈願するのが正しいのです。

あと、蛇足ですが祈願すべきではない神社仏閣もたまにあります。
目安にしかなりませんが、寂れて荒れている所では神仏ではないものがいる事も多いので普通の方はあまり祈願はされない方が良いです。
また、実は人によって合わない神社仏閣と言うのが稀にあります。
ある程度の感覚が鋭い人でないと分からないかも知れませんが、神聖な感じがせず拒否されているような感覚がしたりします。別に障りがある事は無いと思いますが、祈願しても無駄かも知れません。

一番いいのは自分に合うと思える(気持ちがすっきり穏やかになれる)神社仏閣を見つけたら、そこに何度もお参りして根気良く祈願するのが良いです。

posted by 未熟な修行者 at 00:01 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

お彼岸です

2016年09月22日

個人的にはあまり意識しないので書き忘れておりました。(笑)
「お彼岸」でございます。

春分・秋分の日を中日(ちゅうにち)とし、前後3日を合わせた7日間を「お彼岸」と言います。
今日は既に中日ですが。(笑)

仏教では御先祖様のいらっしゃる世界である「極楽」を「彼岸」とも言います。その一方、私達が生きている現世を「此岸(しがん)」と言います。
「彼岸」は西に、「此岸」は東に位置すると考えられています。
春分の日と秋分の日は太陽が真東から昇って真西に沈むため、彼岸と此岸に通じやすい日と考えられ、この時期に先祖供養をするようになったのです。

お彼岸の期間の7日間は御先祖様に感謝をし、生きている人は六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を心がけ、正しき生きようと努力しましょう、と言う期間です。
「布施」は言葉通りの御布施や喜捨と考えてもいいのですが子供など家族に法施(仏法について教える)することも含まれます。
「持戒」は戒律を守りましょうと言う事ですが、守れないまでも守る努力はして、守れなかった場合は反省しましょうと言う事でもあります。
「忍辱」は怒ったりしないよう耐え忍びましょうと言う事。
「精進」は努力しましょうと言う事。
「禅定」は心を穏やかに安定させましょうと言う事。
「智慧」は悟りの事なのですが、上に書いた全てが成就できて初めて完成するとされています。勿論、悟れないまでも悟ろうと努力する事が必要と言う事です。

お彼岸の期間には御墓参りにも行きます。御仏壇があれば綺麗にして「おはぎ」などを供えるとなっています。秋は「おはぎ」で、春は「ぼたもち」を供えるとされています。
材料的には同じ物なのですが、秋は「萩の花」が咲くから「こしあん」「つぶあん」の「御萩(おはぎ)」、春は「牡丹の花」が咲くから「つぶあん」「こしあん」の「牡丹餅(ぼたもち)」だそうです。
(「こしあん」と「つぶあん」を逆に書いていました。修正後が一般的なようです。fさん、りんさん、御指摘頂きましてありがとうございます。 2016.9.23 0:24 修正)


お彼岸を私があまり意識しない理由は
「御先祖様に感謝し、正しく生きる努力はお彼岸の時期に限った事でなく普段から」
と考えているからです。

しかし、普段なかなか仏事を意識できない方には、大変宜しい習慣であるかと思います。
御墓参りに行ける方は是非行かれると良いでしょう。
御自宅に仏壇があれば手を合わせましょう。独り暮らしをされている、仏壇は実家にある、などで御仏壇のある家から離れていらっしゃる場合でも、心の中で御先祖様に感謝するだけでも良いのです。
そして、お彼岸の期間中はすべてを守れないまでも正しく生きようとほんの僅かでも努力をしてみるのが良いかと思われます。それが功徳となります。


ちなみに、この「お彼岸」ですが日本独自のものです。
他の仏教国にはありません。緯度と経度が違う他国では同じ日に太陽が真東から昇って真西に沈むとは限りませんので当然ですが。
また、「暑さ寒さも彼岸まで」と、彼岸を過ぎると暑さも寒さも和らぐと言われますが、今はなかなか当てはまりませんね。

posted by 未熟な修行者 at 10:10 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

天国はありません

2016年09月19日

遺影に向かって
「天国で待っていてね」
というシーンがありますが実は天国はありません。

無いと言い切ってしまうと語弊があるかも知れませんが天国があるとされるのはキリスト教であり、仏教には天国と言うものはありません。
ですから仏教徒、それから仏式の葬儀を行った者に「天国で待っていてね」と言うのは実は少しおかしな話なわけです。

念の為に書いておきますが、キリスト教でも仏教でも宗派によって考え方が違いますので主な宗派での一般的な考え方と思って下さい

キリスト教では地獄に落ちたら未来永劫地獄で苦しむとされており言い換えれば無期懲役です。天国に迎えられれば永遠の命を持って幸せに暮らせるらしいです。(神の国が実現とか復活などは別にして)

仏教では生前の行ないなどによって六道に生まれ変わるとされています。六道とは以下のようなものです。
天道苦が少なく楽が多い、寿命は非常に長い、但し煩悩があり解脱できない
人間道人間が住む世界、苦が多いが楽もある。唯一自力で仏教に出会える世界
修羅道怒りや苦しみに我を忘れ戦いを繰り返す、欲望を抑えることが出来ない
畜生道ほとんど本能だけで生きる、神や人以外の生物の世界、救いが少ない
餓鬼道欲望や飢えに苛まれ満たされることがない
地獄道罪を償わせるため、多種多様な苦しみを受ける世界

天道や地獄道は更に細かく分かれていて説明しきれませんが、基本的には輪廻転生を繰り返して六道のいずれかに転生するとされています。

しかし、諸仏諸尊の救いがあった場合や悟りを開いた者は解脱し、以後は輪廻転生することなく極楽で平穏に過ごせるとされています。解脱は輪廻転生の輪からはずれると言う事です。
天国に相当するものは、この極楽(浄土、極楽浄土などとも言う)ですね。仏様の世界です。
仏式葬儀を執り行えば即極楽に生まれ変わるとしている教義もあります。


仏教では例え地獄道に堕ちても罪を償って地獄道での生を全うすれば次の輪廻転生で別の世界に生まれ変われるとされておりますので、つまりは有期の懲役刑ということです。
この刑期も遺された者達が心から供養すれば短くなるとされています。これは情状酌量ですね。
更には仏様はどの世界の者でも救うと言う誓願を立てていますので、六道のいずれの世界であろうと仏様の救いがある場合があります。つまり恩赦とでも言いましょうか。
地獄道は戦時中の強制収容所、修羅道から餓鬼道の場合は刑務所収容、人道は更生保護施設収容くらいの感じでしょうか。(冗談と思って下さい)
天道は喩えが難しいのでパスいたします。(笑)

仏教では、善行を為し正しく生きて仏様の世界である極楽に生まれ変わること、つまり成仏が目標です。

日本は良い意味で様々な文化を取り入れるという寛容(?)な下地があり、バレンタイン、クリスマス、最近で言えばハロウィンなど様々な宗教のお祭りも違和感なく受け入れられるのが日本人です。
バレンタインやクリスマスやハロウィン(キリスト教の祭りですら無い)などを宗教儀式として受け止めている日本人など殆どいないと言うのは別としても。(笑)

ですから色々な宗教が混ざってしまった結果により
「天国で待っていてね」
と言ってしまうのは残された者の哀悼の気持ちとしては問題はないのですが、仏教的には正しくはないのです。
実際、葬儀等の席で遺族がそのような発言をした時に、言葉には表さなくとも
<いやいや、天国ではないんだけどなぁ・・・>
と思ってしまうお坊さんは割と多くいるそうですよ。

以上、超屁理屈記事でございました。

posted by 未熟な修行者 at 01:10 | Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

縁結びの誤解

2016年09月15日

前回の記事で少し触れましたが、縁結びの御利益を誤解されている方が多いです。

縁結びというのは男女の仲で言えば、既に知り合っている相手と強い縁で結ばれますようにと祈願するものです。
もちろん男女の仲だけでなく、仕事の取引先や友人同士の結びつきなどの祈願も含まれます。

「良い縁が見つかりますように」と縁結びで有名な神社仏閣にお参りされる女性が多いですが、既知の相手がいて「この人と結婚したい」と思っている場合は縁結びで有名な神社仏閣にお参りすると良いのです。

意中の相手が見つかっていないのに縁結びの祈願はちょっと違うのです。
それから意外と多いのが、ファン心理からなのか好きな芸能人との縁結びを祈願される方もいるようですが、これは「熱心なファンになれますように」と言う意味ならばOKですが、芸能人と個人的に付き合いたいとかいう縁結びにはなりえません。
なぜなら、自分が一方的に相手の事を知っているだけではダメで、相手も自分の事を知ってくれている必要があるのです。もちろん目が合った事がある程度ではダメですよ。(笑)

今はまだ友人だが恋人同士になりたい、恋人同士なので結婚したい、友人と強い友情で結ばれたい、営業に行ったものの今一つ反応が悪いが取引が出来るようになりたい、などのように今より深い結びつきを祈願するのが縁結びです。

但し、神様は将来的な事や世の中全般の事も含めて大きな視野で見ますので、宜しくない相手との縁結びは叶えてはくれないらしいです。


まだ相手がおらず、良い相手と巡り会いたいという場合には縁結びではなく良縁祈願にするべきです。
この良縁祈願にも良い取引先を見つけたい、良い友人となれる人と知り合いたい、お金との縁が欲しいなども含まれたりすることがあります。

日本中に良縁祈願の神社仏閣がありますので、まだ特定の相手はいないという場合にはそちらへどうぞ。
(縁結びと良縁祈願どちらも大丈夫と言っている神社仏閣も多くあります)

相手がいない場合には、まずは良縁祈願で良い相手を見つけて、それから縁結びの祈願でさらに深い結び付きを祈願するという順序が正しいです。


なお、良縁祈願をしたからと言って、閉じこもっていたり、人とのかかわりを避けていたりするようでは神様も叶えようがないそうです。
縁結び祈願も同じで、相手が嫌になってしまうような事をすればダメなのは当然で、縁が結ばれるよう、更に言えば結ばれた縁を大切にする自分自身の努力は絶対に必要とのことです。

神様はほんの少し手助けをして下さるだけで、最終的には自分次第と言う訳ですね。

posted by 未熟な修行者 at 21:47 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

惜しい、と思いました(笑)

2016年09月10日

仕事で出掛けた先に、とある有名な神社がありました。
こちらの神社は縁結びの御利益があると言う事でお若い女性には人気があるようです。
そもそも縁結びと言うもの自体を誤解されている女性がとても多いのですが、その話はまた今度。

物凄く近くまで行ったのに御挨拶無しと言うのもなんですが、なにしろ仕事の合間ですので失礼ですが非常に簡単に参拝させて頂きました。

鳥居の下で一礼して参道を進み手水舎の所まで来ると、若い女性お二人が浄めている最中でした。
一人の女性が
「まず左手を清めて〜、次に持ち替えて右手を清めて〜」
と説明しながらです。

最近の若い人ですと親御さんからもお詣りの作法を教えられている人が少ないので、一緒に参拝している人が教えているというのも割とよく見る光景です。
教えられている方の女性は、左手にかけた時点で柄杓の水を使い切ってしまったりで、慌てて水をすくい直したりしてました。
(柄杓にすくった一杯の水だけで行なうのが本来の形ですけれど)
きちんと作法を教えている女性と、一生懸命作法通りにしようとする女性お二人は微笑ましかったです。

次に私の前で待っていた若い男性二人が手水舎に進んでお清めを始めました。
そこで初めて気付いたのですが、てっきり柄杓が二本しか無いのだと思っていたのですが五本あるじゃないですか。
待っていたお二人の男性も若い女性と一緒に手水舎を使うのが気恥ずかしかったのかも知れません。(気持ちは分からないでもないですが)

私の後ろにも人が並び出していたので私はお二人の男性の横に入らせてもらい、最速で手水舎でお清めする事にしました。
私は慣れているので手水舎でのお清めは早いです。きっちりと作法を守っても最速だと10秒かかりません。
柄杓を持ち慣れていると言うのもどうなんだろうと思いますが。(笑)
先に清め始めていた男性お二人が終わった直後に私も終わりました。

そして参道に戻ってビックリ。
先程の若い女性二人も男性二人も参道のど真ん中を歩いています。
<ええ〜、知っているのは手水舎でのお清めの仕方だけ? 惜しいな〜>
と思わず苦笑しました。

と言うか、お参りに来ている人のほぼ全員が参道のど真ん中を歩いていました。
理由はすぐ分かりました。どうやら御賽銭箱の前、真ん中でお参りしたいようなのです。
並んで待っている人がいるくらいでした。

以前にも書きましたが、参道の真ん中は神様の通り道なので端を通るべきです。
御賽銭箱の前の真ん中で、と言うか御神体のまん前に立って拝むのも失礼に当たります。
人が多い場合などには仕方ありませんが、まん前ではなく右か左にずれての御参拝が神様に対して敬意を表すとされています。

そして御賽銭を放り投げている人が多い。と言うか殆どの人が投げてます。
これも大変失礼です。そっと入れましょう。

我々人間だって失礼な人の頼み事など聞きたくありませんよね。
温厚な神様なら許して下さるのかも知れませんが、神社に祀られている神様は元々が祟り神である場合もあります。そして神様の手足となって時に直接的に御利益を授けて下さる神の御遣いは温厚ではない事も多いです。

そもそもが頼み事をするのならば相手が人間だろうと神様であろうと、礼を尽くすべきなのは当たり前のことです。
御利益を頂きたいのであればきちんと礼節を守った方がいいのは当然です。

本当に「ああ、惜しい!」と思いました。(笑)

posted by 未熟な修行者 at 23:24 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

やっと参拝に行けました

2016年09月01日

一件の仕事が日時変更になり、3時間程の時間が空きました。

<これはチャンス!!>
とばかりに、お寺に参拝してまいりました。

どこのお寺かは内緒ですが(笑)、都内にある真言宗智山派のお寺です。
そして何より嬉しいのが、いつでも本堂に入って参拝していいという、とてもありがたいお寺なのです。
(勿論、参拝可能な時間は決まっていますが)

御住職はお怪我をされているそうで出てこれず、副住職は出かけられておりましたので、御住職の奥様が対応して下さいました。

御参拝自体もそうなのですが本堂に入らせて頂ける事も久しぶりなので、思う存分たっぷりと仏様とお話させて頂くつもりでした。
まずは御本尊様に礼拝し、そして色々とお話を。
これだけで20分ほどでしょうか。(笑)

奥様がいらっしゃって御本尊の由来など色々と御説明して頂いたり、海外からも御参拝者がいらっしゃる事とか御住職の来歴などもお話し下さったり、お飲み物を出して下さったりと大変親切にして下さいました。御住職とお話するのも楽しいのですが、御住職の奥様とのお話も楽しいです。

そして再び御本尊様とお話の時間です。また20分ほどです。(笑)

そうこうしていると
「すみません、御朱印を頂けますか」
と、本堂に入って来られた方がいらっしゃいました。
本堂に入ってすぐ横には参拝者の方が寛げるようにテーブルと椅子が幾つか置かれております。
そこで御朱印を頂きに来た方と奥様が会話していらっしゃいます。

<あ、私が御本尊を独り占めしていてはいかんな>
と思って下がりました。奥様も御住職に御朱印を書いて頂くために庫裡に戻られました。

御朱印を頂きに来られた方はとても綺麗なお嬢さんでした。
私の娘と言ってもおかしくないくらいの年齢だと思います。

「こんにちは、御朱印を集めてらっしゃるのですか?」
とお声をかけました。
「はい」
「もう結構集められたのですか?」
「いえ、まだ最近始めたばかりなんです。昔からお寺が好きで御朱印にも興味があったので・・・」

決して変な下心で話しかけたのではありませんので誤解無きように。(笑)
私はお寺に参拝に来ておられる方には割と気楽に話しかけてしまいます。
ちょっとした仲間意識と言いますか、嬉しくなっちゃうのです。
お寺に用があるとは思えない強面をした男が黙ったままでいたら、それこそ不気味ですし。

そのお嬢さんも御本尊の前に移動して拝まれました。私はその間に本堂内を再び色々見学です。
お嬢さんは2〜3分程で御本尊の前から下がられ、先程の椅子に戻りました。
(もっとたっぷり拝んでいいのに、と思ったり)

なので、私が再び御本尊の前に座らせて頂いて会話です。今度は10分くらいです。
一般参拝者とは言えませんので、妙な動作をしている私を変に思ったかもしれませんね。(笑)

そして本堂を後にいたしましたが、1時間近くいたと思います。
おかげさまで、すっかり癒されました。とても良いお寺でした。
ありがとうございました。

posted by 未熟な修行者 at 00:24 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

今日は酷かった

2016年08月27日

今日は仕事で幾つかの電車に乗って移動がありました。
忙しくて大変だというのに面倒な事に今日は見えてしまう日だったようです。

基本的には割とそこらに普通にいるんです。
ただ、その辺をウロウロしているだけの何の影響もないものは、ほぼ人の形すら留めていなくて、かなり薄っすらとしたモヤのようなものであることが多いです。消えてしまう直前のようなものだと思いますので、この程度なら私もいちいち怖がりませんし、ビックリする事もありません。
そもそも見た内にも入れません。

私の友人の超便利なY君(超を付けてみました)も同じだそうで
「いないよ」
と言う時には、あくまでも
「影響のあるような悪くて強いのはいないよ」
という意味で言っているのであり、何の影響もないのがそこらにいても別に普通の事なので敢えて数に入れないのです。


それはともかく今日見たものの話しです。

お昼少し前ですが、私の乗った地下鉄が某駅に着いた時です。
地下鉄が駅に完全に停車する直前、ホームの乗車位置に50〜60代くらいの女性と男性、40代くらいの女性、20代前半の女性がいて電車を待っているのが見えました。

20代前半の女性は、膝下くらいまでの長さの真っ白なワンピースを着ていて、白い手提げのバッグを左手に提げた、とても可愛らしい女性でした。
もちろん変な意味で見ていたのではないですよ(笑)
蛍光の白と言いますか、目に刺激があるのではと言うくらい物凄く真っ白なワンピースでしたので
<えらく真っ白な格好をしている子だな>
と思ったのです。

私はドア近くに立っていましたので邪魔にならないように少し脇に退きました。ドア脇の座席の前にです。座席には座っていらっしゃる方がいたので足を踏まないように視線を落として移動したのです。

駅のホームにある落下防止のホームドアが開き、ほんの僅かに遅れて電車のドアが開きましたが、不思議な事に開いたドアから乗車してきた人は3人だけで、白いワンピースを着た20代の女性は乗ってきません。
<あれ?>
と思ってホームを見ても女性はいません。

目を離している間に他のドアに移動して乗ったのだろうと思ったのですが、そこで妙な事に気づきました。
読んでいる方も気付いた方がいるかもしれませんね・・・分かりますか?


その駅にはホームドアがあります。
ホームドアで隠れて見えない筈なのでワンピースが膝下くらいまである事も、そもそもワンピースかどうかすらも分かる筈はありません。
白いバッグを左手に提げている事も同じで、本来なら見える筈がないのです。

不思議ではありましたが嫌な感じがするわけでもなく、特に何の影響もなかったので気にせずに乗り換えの駅まで乗っておりました。(笑)


そして午後4時頃なのですが、戻る移動の時には少し嫌なのを見ました。
これは地下鉄ではなく地上の電車なのですが、とある大きな駅のホームで見ました。
色々な路線が乗り入れている駅なので乗り換え客が非常に多い駅です。

私も乗り換えのために駅のホームで電車を待っていたのですが、私がいるホームの反対側の線路の上に黒いモヤが2つ動いていました。
人型はしておらず崩れた楕円形で、薄っすらしているのに割とはっきりした(分かりにくい説明ですね)黒いモヤなのです。何となく宜しくない感じがします。
<あ、まずい、見ない方がいいかも・・・>
と視線を外そうとすると反対側ホームの下から更に3つの黒いモヤが出てきました。
<うわっ、増えた・・・>
と思った瞬間、その黒いモヤ達がいる反対側ホームには電車が入ってきて見えなくなりました。

消えたかどうか分からないのですが、ちょうど私が乗る電車も来たので乗りました。

ただ、やはり少し影響は受けてしまったようで乗車中は体調が悪かった(頭痛と吐き気)ので、とある仏様を観想しながら真言を心の中で唱えておりました。そのおかげか目撃した駅から離れるにつれて回復しました。
まだ僅かに影響残ってますけど、放置しておけば消える感じです。

それほど酷いものではなさそうですが、精神的に不安定な人にはあまり良くない気はします。


何なんでしょうね、今日は結構見えてしまいました。
上に書いたものだけでなく他にも見たのですが、人の形をほぼ留めておらず消える寸前と思える薄っすらしたモヤのようなものでウロウロしているだけの何の影響もないものばかりです。

しかし、白いワンピースの女性は生きている人と思うくらいに普通にはっきりと見えました。
生きている人に見えたのによく見たら実は違ったと言う事はあるのですが、ここまで違和感なく人としか思わなかったというのはそれ程ありません。


駅のホームは人身事故とかあって、そういうのが割といるのではないかと思われるかも知れませんが意外な事にそれほどいません。今日見たのは特別と言ってもいいくらいです。
もしかしてラッシュ時の生身の人間のパワーには負けるんでしょうかね。(笑)

単純に数だけで言えば連絡通路とかの方がまだ多いと思います。
Y君曰く、都内の某オフィス街にある駅と駅を結ぶ、とある連絡通路には結構な数がいるそうです。
ただ通っているだけの何も影響がないものばかりだそうですが。
私は幸いなことにそこでは見た事がありません。見たくもないですが。


明日には見えなくなっていますように。

posted by 未熟な修行者 at 23:18 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

では、お寺参拝時は目を瞑る?

2016年08月25日

前回、神社参拝時には目を瞑らずに合掌して御参拝すると書きました。
勿論あくまで私の方法ですので、そうではないと思う方は御自身の方法で御参拝して下さい。
更に言えば原則的には目を開けたままということですから、目を閉じて合掌というルールがあればそれに従って下さい。

それではお寺などの仏閣参拝時にはどうするのか、です。
実はお寺の場合は宗派などによっても違いますし、極端な話を言えば御本尊によっても違う場合もあり、こうすればいいとは言い切れませんので難しいです。
あくまで一例になってしまいます。

山門(お寺の門ですね)の前で一礼します。出来れば合掌して一礼が望ましいです。

神社と違って参道の真ん中を歩いてはいけないと言う決まりはまずありません。
ただ、非常に数少ないのですが一部のお寺では参道の真ん中を歩いてはいけないと言うルールがある所もありますので御注意下さい。そういう場合は注意書きが書かれてあります。
不安なようであれば敢えて真ん中は通らないようにすれば大丈夫です。

手水舎があれば浄めて下さい。これは神社と一緒です。

お寺によっては御線香や灯明(ローソク)を御供えできる場合があります。お気持ち程度の御浄財、もしくは10〜100円位だと思いますので可能であれば御供えしましょう。
もちろん必ずしも御供えしないといけないと言う事ではありません。
他の人が点けた灯明から火を貰わないようにと言われる事が多いのですが、実はこれ諸説あります。
種火としてライターやマッチが用意されている事も多いので、それで火を灯す方が無難です。

本堂の前に御浄財箱があれば御浄財(神社で言う御賽銭です)を入れます。
お寺によっては本堂の中に御浄財箱があることもあります。
どちらに入れても構いません。

本堂が閉じられていて本堂の前には御浄財箱も見当たらず、どこに御浄財をすればいいか分からない場合があります。本堂の扉前に無造作に置いていく方もいらっしゃいますが、それは出来る限り避けましょう。
境内に他の仏像があれば、その近くに御浄財を入れられる小さいポストのような御浄財箱が設置されている事もありますので、そちらに入れましょう。
(御浄財は本堂でなければならないわけではありませんので)

神社と同じで決して投げ入れてはいけません。静かに入れます。金額は幾らでも構いません。

本堂に入る事が可能な場合には、入る時に合掌し一礼します。
参拝者が座っていい場所は決まっており、僧侶しか上がってはいけない場所もあります。
たいてい一段上がっているか、何かで区切られていますので無闇に上がってはなりません。
正座して合掌し一礼します。

本堂に入れない場合には扉の前で一礼してから合掌しますが、その場合にも注意点があります。
本堂前が階段になっていて上がったところに御浄財箱があればそこまでは上がっても大丈夫です。但し柵などで塞がれていたら遠慮しましょう。また階段は土足厳禁である事も多いので御注意下さい。
もし、上がったところに御浄財箱が無い場合は勝手に上がらずに階段の下で合掌します。

合掌の際に、御本尊(以外の仏像でも同じですが)を見ることが出来るのであれば目は瞑らず、まず御姿を拝見して下さい。
その後は薄く目を開いた状態にします。仏像は薄く目を開いていることが多いですが(半眼と言います)そんな感じで同じくらいに目を開けた状態にします。

御本尊(以外の仏像でも)を見る事が出来ない場合は、最初から半眼の状態でもいいですし、御姿を知っているのならば目を閉じて心の中に思い浮かべてもいいです。

なお、お寺での合掌は胸の少し上辺りできちんと手を合わせます。指先は仏様には向けないようにします。
指を開いて交差した合掌をしている人もおりますが、普通に手をしっかりと合わせるだけで構いません。

密教系のお寺ですと仏様の真言を唱えるよう書いてあったり、他の宗派でも御題目などを唱えるよう書いてあることがあり、必ずしも唱えなくてはいけないと言う事はありませんし、唱える場合でも心の中で静かに唱えれば構いません。(声に出してもいいですが)

御願い事をしていいのか、は人によって意見が違うのですが、私は御願い事をしても構わないと思っています。
ただ不謹慎だと思われる方もいるので心の中で御願い事するのがいいです。
御願い事をする場合には住所氏名もきちんと告げるといいです。(場合によっては山門入った所から心の中で告げる)

最後に合掌のまま、軽く目を瞑って心の中に仏様の姿を思い浮かべながら深めの御辞儀をします。

山門を出てすぐに境内の方を向いて一礼するとなお良いです。


実際のところ仏教ではあまり作法に捉われなくても構わないのです。
特に一般参拝者にまでうるさく言うお寺はまずないです。
(そうではないお寺もあるにはありますが)

神社の場合には神様に対して畏れ多いという気持ちで礼を尽くして参拝するのですが、お寺の場合は失礼にならない程度に仏様に親しみを持って参拝するのが望ましいです。

私は一般参拝者とは言えませんので僧侶にも合掌して御辞儀しますが、そこまでしなくても構いません。


ああ、長くなった割には薄い記事になってしまった・・・

posted by 未熟な修行者 at 23:45 | Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

神社参拝時に目を瞑る?

2016年08月21日

私が神社に参拝している姿を見た人から
「手を合わせている時、何で目を開けたままなの?
 合わせた手の向きも変わってるけどそれが正式なの?」
と言われました。

あれ?神社に参拝する時に目を瞑る人って結構多いのだろうか?

何か色々な説があるようですが、私の場合には

鳥居の前つまり神域に入る前に一礼します。
途中に手水舎があれば必ず寄って、きちんとした作法で浄めてから拝殿の前まで行きます。
拝殿の前まで行く時ですが、鳥居の下も参道もですが真ん中は通らず必ず端を通ります。
真ん中は神様の通る道ですので、そこを通るのは失礼に当たります。

拝殿の御賽銭箱の前に立ってお参りになると思いますが、御賽銭箱の正面真ん中には立たないようにしましょう。
よく見かけるのですが、せっかく失礼にならないように真ん中を通らずに御賽銭箱の前まで来たにもかかわらず、御賽銭箱の前に来た途端に真ん中に立ってしまう方がかなりおります。

軽く一礼します。
深いお辞儀でなくても構いませんが、きちんとお辞儀しましょう。もちろん深いお辞儀でも構いません。

そして御賽銭を入れるのですが絶対に投げ入れてはいけません。御賽銭を掌に載せ、掌を傾けて滑らすように入れて下さい。御賽銭は幾らでも構いません。
お札の場合には予めピン札を白い封筒に入れ、住所と名前を書いておくのが正しいです。

鈴を鳴らすのであれば軽く2回ほど縄を揺らして鳴らせば問題ありません。
ガラガラと派手な音を立てて何度も鳴らす方がいますが、あまり何度も鳴らすのは失礼にあたります。

二礼、これは割と深いお辞儀を2回。

次に二拍手、打ち鳴らす時に大きな音が出ないよう控えめな方もいますが、ある程度大きな音で鳴らすのが正式です。
両掌が当たる時の形の理想ですが、指先を前にして合掌した形から右手を少し(指の関節一つ分くらい)引きます。そして更に右手の人差し指と中指が左手の人差し指と親指の間になるようクロスした形にずらします。掌は少しふくらみを持たすよう丸くするといいです。
文章で書くと分かりにくいですが、その形なるように打ち鳴らせばそれなりの大きさの音が出ます。
打ち鳴らした時の手の位置は胸より若干下です。

次に先程の二拍手目でずれていた掌をぴったり合わせて合掌ですが、この時は指先は拝殿の方を向かせます。
つまり指先を真上に向けるように合掌するのではなく、神様のいらっしゃる方向に向けると言う事です。

祝詞を唱える場合にはここで唱えます。
(追記 2016.8.21 23:03 fさん、御指摘ありがとうございます)


合掌のまま御願い事をするのですが、この時に目は閉じずに指先と同じように神様のいらっしゃる方向を見ます。
拝殿の中には鏡がある筈ですので、その鏡に視線を向けるのです。拝殿の扉が閉じていて良く分からない場合は鏡があると思われる方向(たいてい目線よりやや上です)を向きます。

大事な事ですが、御願い事の前に必ず自分の名前と住所を言って下さい。(心の中で言ってもいいです)
参拝者が多い場合には拝殿前にいつまでもいると他の参拝者の迷惑になりますので、鳥居をくぐった辺り(神域に入った所)から心の中で名前と住所を言いながら歩き、拝殿前では御願い事だけ言えばいいです。

最後に一礼します。この時も深いお辞儀なのですが頭を下げた状態を2秒程維持します。

そうそう、帰る時も真ん中は歩いてはなりません。
更に鳥居をくぐって神域を出てから一礼すると尚良いです。


神社で目を閉じてお参りするのがいけないとまでは言いませんが、目を閉じるのは神仏習合で神様と仏様が一緒になってお祀りされていた時の名残ではないかと思われます。
posted by 未熟な修行者 at 00:54 | Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

除霊の実験(その3)

2016年08月14日

除霊の実験(その2)の続きです。


いよいよ除霊のふりです。
Aさんには手を合わせて目を閉じてもらいます。
C君は私が教えた通りの印(実際にはない印)を組んで真言を唱えます。

助手的な役目をすると言いながら、私はAさんの背後で喫茶店で書いておいた真言のメモをC君に見せていたのでした。
実はその真言も非常に適当です。うろ覚えの色々な真言を組み合わせて適当な長さにして書いておいただけです。
C君も覚えきれなかったので本当の私の役目はメモを見せる役です。(笑)

C君は真言を唱えたまま、額に手を当てたり、気合を入れたり、粗塩を振りかけたり、指先で背中に何か書くフリをしたり、肩をバンバンと叩いたり、いわゆる霊能者っぽい仕草を一通りやって貰ったわけです。

途中であまりの馬鹿々々しさに可笑しくなってきて笑いがこみあげそうになったりして大変でした。
Y君なんて俯いて必死で笑いを押し殺していましたけどね。

あまり短く終わると怪しまれるので10分程度は続けていました。

一通り終わった後にAさんに目を開けてもらいました。
とても晴れやかな顔になっています。
気分を聞いてみると
「とてもスッキリしました。肩も重かったのが凄く軽くなりました」
と言います。

背筋を伸ばして座ってもらっていたのでスッキリしても当然ですし、肩に至っては割と遠慮なくバンバン叩いていたので血行が良くなり軽くなった気がするのも当然です。

そして最後にC君が
「今貼ってある、御札はすべて剥がしてください」
その後に続けて私が
「どこかの神社かお寺でお焚き上げして貰って下さい。その時に1枚だけ新しく御札を頂いてリビングに必ず南向きに貼って下さい。複数の御札があると力が干渉しあって弱くなるので必ず1枚だけにして下さいね・・・ですよね?」
とC君に顔を向けると、C君もそれらしく頷きます。


Aさんはすっかり安心し晴れやかな表情で何度も感謝の言葉を述べて、謝礼まで渡そうとしてきましたが、もちろん固辞しました。
C君の連絡先を執拗に聞いてきたのも何とか誤魔化して躱し、そそくさとAさん宅を後にしました。

その後、Aさんは何も起きなくなったと言って普通に暮らして、2年後に実家に戻ったそうです。
除霊の真似事でしかありませんから効き目などある筈もありません。

つまりは気持ちの問題であっただけですね。

そもそも霊にとり憑かれるなんて事はまず滅多にある事ではありません。
その多くが気のせいであったり神経が過敏になっているだけです。霊にとり憑かれていると思った人の9割方はそういったものだそうです。
残りの1割も特に大きな悪影響を及ぼす事もなく、若干敏感な方なら気分的にすぐれないなと思う程度、見えてしまう人にとっては場合によっては少し怖い思いをする程度で、2〜3日で自然にいなくなる場合が大半です。

ただ状況によってはそう簡単に済まない場合もあるにはあって、霊との何らかの因縁がある場合などは受ける悪影響も少々大きくなることはありますし、簡単には離れてくれない事もあります。

よく悪霊云々などと言われますが、そんなのはほとんどいません。
テレビに出るような霊能者が大袈裟に言い過ぎなだけで、そんな酷いのが実際にいたらもっと大きな騒ぎになります。
Y君が手こずった事もあるにはありますが、それでも彼の40年以上の人生で数回しかありません。

posted by 未熟な修行者 at 01:46 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記