とある日の師僧(1)

2018年01月08日

そろそろ、お正月気分も落ち着いてきた頃ではないかと思います。

そんな私はお正月気分もたいして味わう事も無く、溜まりに溜まった事務作業ばかりしてました。
自業自得なので特に不満もございません。(笑)
週明けからは御客様に呼ばれての作業もある事ですし、さっさと片付けなくてはなりません。
と言ってもまだ終わりが見えていません。^^;

と言う訳で少々忙しいままではありますが、そろそろ何か記事を書かないと、と思った訳でございます。
しかし、余計な話とか蛇足とか脱線とかしてしまって長文になるのが私の特徴で、普段からそんな感じではありますが特にちょっとばかり忙しい時期になると現実逃避の気持ちが現れる為か、余計にそれが顕著になります。(笑)
なので、話を広げようもない適切なネタが無いか考えました。その時間が既に現実逃避のような気もしますが思いつきました。

私が師僧と呼ぶ方は三人おります。(本来は御一人です、念の為)
その内のお一人に、かなりの変わり者と言いますか、とぼけた師僧がおられます。
と言っても、仏の教えには大変真摯に向き合い、今でも御歳(70代後半だと思う)の割に少々無謀な修行をしたりしますし、優しいだけではなく厳しい面も持っておられる非常に素晴らしい師僧です。
この師僧の発言とかが非常に面白くて(失礼!)ネタになるじゃないか、凄い深い発言もたまにする(失礼!)し、と気付いたのです。
この師僧にブログに載せても良いかを聞いて許可を頂いております。

昨年末のある日の事
師:「すまないが、〇〇日に煤払いがあるんだが、手伝いに来てくれないか?」
私:「御師僧様の頼みとあれば行きたいところなのですが」
師:「何か用事があるのかな?」
私:「仕事が切羽詰まっておりまして。申し訳ないですが無理そうです」
師:「そうか、困ったな・・・いや、檀家の皆さんは高齢の方ばかりでな、若くても40代でな」
私:「はぁ・・・?」
師:「40代にもなれば寺の煤払いはなかなか大変だろうから」
私:「御師僧様、私既に50代ですけれど・・・」
師:「あれ?そうだったか?まだ30代後半くらいかと思っていたわ」
私:「どなたかと勘違いでは?それとも私そんなに若く見えますか?」
師:「いや、見た目が老けているだけかと思っておった」
私:「・・・(絶対適当な事言ってる)・・・」
師:「まぁ、仕事であれば仕方ない。しっかり務めを果たすようにな。しかし、そんなに忙しくて体の方は大丈夫なのか?」
私:「なかなか疲れがとれないですね」
師:「いい若いもんが何を言う」
私:「・・・(いや、だから50代ですが)・・・」
師:「肉を食え、肉を!」
私:「御師僧様、それ私以外には絶対に言わない方がいいですよ・・・」

私的にはツボでしたけど、そんな面白くないかな?^^;

posted by 未熟な修行者 at 00:39 | Comment(7) | 日記

明けましておめでとうございます

2018年01月01日

あけましておめでとうございます。

旧年中はこんな適当ブログに御来訪賜りまして誠にありがとうございました。
昨年も同じ事を書いた気がしますが、本年も相変わらず適当なスタンス&適当な記事を書いていきたいと思います。^^;

皆様にとりまして、より良い一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。
何卒、変わらぬ御愛顧の程宜しくお願い致します。

posted by 未熟な修行者 at 18:01 | Comment(7) | 日記

今年もお世話になりました

2017年12月31日

こんばんは。

本年の御厚情に心より感謝申し上げます。

何だか年末ギリギリまで忙しくてバタバタしておりました。(実際は進行形ですが)

なんと、このブログも2年目を終えて、いよいよ3年目になるのですね
と言っても私が好き勝手な事を書いているだけの場所ですので、それほど感慨深いものはございませんけれど。^^;
それでも読んで下さる方がいらっしゃって、コメントまで頂戴できるのは大変嬉しく思います。

来年もスローペースな更新頻度で、相も変わらず訳の分からない記事ばかりだと思いますが、宜しく御願い致します。^^;

皆様に良いお年が訪れますように。


posted by 未熟な修行者 at 20:13 | Comment(7) | 日記

なぜ仏教に?(5)

2017年12月27日

年末進行と言いますか、駆け込みで「大至急」という仕事が多くて超多忙です。いつも年末は割と暇なのですけど今年はどうなっているのでしょう。(笑)

事細かに書いていると年を跨いでしまいそうですので一気に書いてしまいます。もちろん長いです。
そして例によって端折って書いていますので訳が分からないかも知れませんが御勘弁を。^^;


では続きです。

40年近く昔、やさぐれて小生意気で理解力も足らない中学生の時に救いを求めて色々な宗教に触れてみて、その時に感じた事を素直に書いています。
現在の私は他宗教他宗派の批判や否定をするつもりはまったくございません御理解下さい。
御信仰なさっている方にとっては暴言に聞こえるかも知れません。大変申し訳ありませんが、大昔の事と言う事で御理解、御容赦下さい。



本堂で静かに座っておられる御坊様の邪魔をしないよう、その後ろに私も静かに座りました。その御坊様は別に御経をあげているようでもなく黙ったままです。
私に気付いていないのでしょうか、その御坊様は後ろを振り返る事も私に声をかける事も無く、じっと座ったままで数分間が経過しました。
話しをしに来ている私としては声をかけた方がいいのかどうか迷いました。ひょっとしたら寝ているんじゃないかとさえ思いました。^^;

じれったくなってきて声をかけようかと思った瞬間に御坊様が口を開きました。
「お待たせして申し訳ありません」
そして、体をこちらに向けました。普通は座禅をしたままでこちらに向きを変える事など無いと思うのですが、腕を使ってズリズリッと体の向きを変えたのです。少々不自然と感じてしまう動作でした。
座禅をしているように思っていたのですが脚は組まれておらず、膝下を若干前に投げ出したような恰好でした。胡坐を崩したような感じです。
こちらに向き直ってから裾の乱れを直したのですが、その動作にも少々不自然さがありました。年齢は40歳前後に見えます。

その御坊様は
「脚が不自由なもので無作法ですが御許し下さい」
と言いました。これはかなり驚きました。
身体が不自由な為に致し方ないのでしょうが、悪い言い方をすれば少々だらしなくさえ見えてしまいます。正直なところ、そんな体で御坊様としてやっていけるのかとも思いました。今まで御坊様に抱いていた凛としたイメージとはかなり違います。
しかし、その一方でこのお坊様には気さくに何でも話せそうな雰囲気が感じられます。感覚的には友達目線で親身になってくれる学校の先生のような感じです。
「あいにく目もよく見えませんので…失礼ですが、どなた様でしょう?」
裾を直す仕草も不自然に感じたのは手探りだったためのようです。

自分が誰であるのか、なぜ訪れたのかを説明しました。

会話形式だと必要以上に長くなってしまいますので、ここからはかいつまんで書きます。

この御坊様は僧侶になって暫くしてから不運な事故に遭ってしまい、右脚の膝が完全に曲がらなくなってしまい、正座も結跏趺坐も出来なくなったとの事です。
また脳にダメージを受けた為なのか、視力が極端に低下してしまったのだそうです。まったく見えないわけではなく光や色や形が何となく分かる程度、文字は眼前数センチの距離であれば何とか読めますが、普通は機械を使って超拡大したものを読むそうです。(一文字ずつ追っていく程の拡大率だそう)

長男なので住職を継ぐはずだったのですが、住職としての務めはとても果たせないと思い、先代住職と弟さんに自ら御願いをして、弟さんが住職を継ぐようにして貰ったのだそうです。
僧籍自体はあるものの、出来る範囲で弟さんの御手伝いをするだけで、ある意味では養われているような状態なのだそうです。
ですが、そのお陰で時間だけはたっぷりとあるので、自身のいるお寺の宗派に限らずに様々な宗派の教えを学んだりしているそうです。代筆して貰った手紙と電話で他宗派の方にまで教えを乞う等もして、更にはそれなりの地位にいる御坊様でも学ばないような古い教えなども学んでいるそうです。

私が中学生だと知れば相手にされないかと思いましたが、まったくそんな事はありませんでした。最初だけ丁寧な言葉遣いで、その後は割とざっくばらんな話し方になりましたので相手にされていないのかと思いましたがそういうわけでもありませんでした。
自分はこの寺に来る人の話し相手になるくらいしか出来ないからと謙遜しておりましたが、じっくりと話も聞いて頂けると言うか、私がひとしきり喋るのですが合間合間に理解できなかった点を質問をしてくるだけで、それ以外はほぼ相槌を打つだけにして口も挟むことなく好きなように喋らせてくれます。

私が言いたい事を喋った後でその御坊様は言いました。
仏教を信仰すれば救いがあるかと言えば、ただ信じるだけでは何もならない。誤解を恐れず言えば、そういった意味では今の日本の仏教では救われるとは言い難い。
如来や菩薩をはじめとする諸仏諸尊を心から信じるのは間違った事ではないが、その救いを信じるだけで自身は何の努力もしないと言うところからは程遠いところにあるのが本来の仏教である。

そもそもは、人として生きるのは苦であるから、その苦から逃れるためには、心を正しく保ち、行動を正しく改め、言葉を正しく使い、人として正しく生き、優れた自己の完成を目指していく事こそ必要な事で、最後はその優れた自己のままで正しく死んでいくと言う教えが仏教なのだと。
我儘放題に自分の思い通りに生きようとするから無理が出て、心の中に苦しみを生み出してしまう、それを煩悩と表現するがその煩悩を打ち消すのは、その心の持ち主である自分自身だけなので、仏教では正しく生きると言う修行が大切なのである。
諸仏諸尊を信じる事で何らかの功徳があるのだとしても、人として正しく生きる努力をしない限り、いくら信じてもその功徳は現れることはないはずである。諸仏諸尊の悟った真理に自身も近づけるよう努力してこそ、その功徳もあろうと言うものである。

自分は霊を見た事は無いが、見えないながら何らかの気配を感じたりなどはあるし、この世の全ての事象が解明されている訳ではないので否定も肯定もできないが、見える人にとっては存在し、見えない人にとっては存在しないと言うだけのこと。
自分などは霊だけでなく周りにある物ですら見えていないが、それと同じ事である。視力が良い人は遠くにある物でも存在を確信できるが、視力が悪ければ遠くにある物の存在は確信できないと言う事と何ら変わりはない。貴方は視力か感受性が良いため存在を確信できるだけなのだと思えばいい。
ひょっとしたら神仏がそういう役目を授けたのかも知れないが、そうではなくて高尚な意味など何も無く、ただ見える人として生まれただけなのかも知れない。どちらにせよ貴方は見える人として、今この世に生きている人であると言うだけなのだ。

見えるだけで何も出来ないと悩むのも、ついてこられることがあるのが嫌だと悩むのも、体調に悪影響が出ることが嫌だと悩むのも、自分の思い通りにならないから悩むのである。自分の思い通りにいかないのが人生と言うものである。
風邪をひきやすく体調を崩す事が多い人が悩むのと何ら変わりはなく、思い悩むだけでは何も改善しないので自身が気をつけるしかないのだ。

人に話して変わり者扱いされたり、嘘つき呼ばわりされるのが嫌なら、見えた霊の話などしなければいいだけである。見えない人や懐疑的に思っている人にまで信じてもらおうとして、信じてもらえないと苦しむのは自分勝手な思い込みによる愚かな行為である。信じない人、信じたくない人にとって見えないものなど何の意味も持たないのであるから話さない方が良い。

貴方はまだまだ若く宗教に頼らずとも生きる力に溢れているのだから、無闇に宗教に救いを求めて頼るだけになるには若過ぎる。出家するのであれば別だが、人生経験が無いまま宗教に頼り切ってしまうと歪んだ人間になってしまいかねない。
宗教に神秘的な救いを求める前に、そういう人間として自分は生まれたのだと言う事を素直に受入れ、その上で自身の心をしっかりと見つめて正しく保ち、自身を向上させる努力が先決なのである。
齢を重ねていく内に、きっと力になってくれる理解者も現れるだろうし、仏教ではなくとも自身が信じるに足る宗教を見つける事もあるだろうし、その際には自分で良い悪いを良く考えて判断すれば何を信仰しようが良いのである。

かなり端折って要点だけ書いていますが、そう言ったお話しでした。
間違った事を言われているとまでは思いませんでしたが、正直に言ってしまえば何の解決にもならない事しか言われていません。
ですが、まさか御坊様から宗教に頼るな、自分が正しく生きる努力をしていればいい、などと言われるとは思いませんでした。
その御坊様のお寺の宗派どころか仏教を勧められてもいませんし、本堂で話していたにもかかわらず御本尊に手を合わせろとも言われる事も無く、また機会があれば話をしにいらっしゃいとしか言われませんでした。

しかし、信じるなら仏教だと思いました。
この御坊様は、信仰すれば救われるのだと安易な事を言わなかったからです。(そういう宗派も無いわけでは無いですが)

と言っても実際に信仰するに到るのは数十年後であり、この御坊様のお寺の宗派でも無くて、一部の他宗派からは神秘主義だとも言われることもある真言宗を信仰する事になりましたけれど。(笑)
実際に信仰に到るまでは酷いもので、少しはマシになったものの暫くはやさぐれ続けていましたし、仏教で禁じられている様々な戒を守っていたなんて事は無く、どちらかと言えば破りまくりでした。^^;

実はこの御坊様にはそれから一度もお会いしておりません。
信仰を持とうと思った時に思い出して、そのお寺を訪れた時には既に遷化(他界)されておりました。
もう一度くらいは会ってお話していれば良かったなと言う思いはあります。
時間はかかりましたが、この御坊様に出会えたお陰でいくらかでも気持ちを楽にして頂けて、仏教を信仰する下地になったわけです。
私が無信仰であろうが他の宗教宗派を信仰していようが気にしないのは、この御坊様が言っておられた本来の仏教の教えはと言うお話が未だに影響しているのかも知れません。
言っていた通りに、助けになってくれる理解者も現れましたし、尊敬できる師僧に出会えましたし。


終わりです。
最後の方は凄い端折ってしまい、すみません。^^;


posted by 未熟な修行者 at 23:52 | Comment(9) | 日記

なぜ仏教に?(4)

2017年12月20日

続きです。

40年近く昔、やさぐれて小生意気で理解力も足らない中学生の時に救いを求めて色々な宗教に触れてみて、その時に感じた事を素直に書いています。
現在の私は他宗教他宗派の批判や否定をするつもりはまったくございません御理解下さい。
御信仰なさっている方にとっては暴言に聞こえるかも知れません。大変申し訳ありませんが、大昔の事と言う事で御理解、御容赦下さい。



前回は神社に行って話をしてみようと試みた結果、忙しい神職の方に殆ど相手にされず、若く愚かだった私はそれだけでイラッとしてしまったお話しを書きました。^^;


やっと仏教が出てきます。(笑)
神社では殆ど神職の方に相手にされなかったので「ならば仏教だ!」と思ったわけです。
ですが、そもそも仏教がどういうものかもよく分かっていません。
家には仏壇はございましたが、御供養のために御供えと御線香をあげて手を合わせるというだけであって、実際どんな教えなのかもまったく知りません。
それどころか漠然としたイメージでは「ちょっと古臭いな」と感じていたのも事実です。
仏教の開祖が御釈迦様と言う事は知っていましたので、お寺の御本尊は全て御釈迦様の像だと思っていたくらいです。(笑)

例によって、まず基礎的な知識だけでも仕入れておこうと思いました。
ですが、経本そのものを読んでも理解できないしょうし、色々な御経のどれを読んだらいいのかも分かりません。
そして当時は今と違い、中学生でも分かる程に仏教を分かり易く説明した書籍はそれほど多くはありませんでしたので、なんとなくある程度までは理解出来そうな書籍を適当にいくつか読んでみました。
ところが書いてある内容が普通に違ったりするのです。
今なら著者がどの御経を題材にするのかによって違ってくるのだと言う事も分かりますけれど。

最も困るのが少しマニアックな内容が書いてあったりして「そもそも仏教って何なんだ」と言う事がよく分かりません。著者もそういったマニアックな点を強調して書いているのではないかと感じるほどです。
仏教というものが何なのかと言う事が分かっていないままで、宗派毎の違いやマニアックな儀式の事、宗派によって本尊も詠む御経も違うなどと言う事は分かったものの根本の教えが何なのかは分からないままです。

教えの基礎となるものが一体どれなのかが分からないのですから、正直に言えば聖書や古事記、日本書紀などよりも困りました。
仕方が無いので、よく分かっていないまま、普通に御坊様に聞いてやろうと思いました。
(行ったお寺の宗派などは伏せさせて頂きます)

最初に行ったお寺ですが、忙しいのかまったく相手にされませんでした。(笑)
もしかしたら子供など相手に出来ないと思ったのかも知れず、親御さんと一緒に来た方がいいと言われました。
帰り際にパンフレットみたいなものは何冊か頂きましたが、その宗派で定期的に出している刊行物だったようで私が知りたい事は載っていませんでした。

次に行ったお寺も同じで御住職以下忙しいらしく、代わりに御住職の奥様らしい年配の御婦人が親切に多少のお話し相手になって下さいましたが、あまり具体的な話はできないままでした。同様にパンフレットを頂きましたが、やはり肝心な部分は分かりませんでした。

やさぐれていて沸点も低めですので、この時点で既にイライラしました。(笑)
僧侶と言うのは、昔からもっと身近な存在で庶民の些細な相談事でも親身になって相手をするものなのではないかと不満でした。(昔は庶民の相談相手になっていたと言う事は読んだ)
色々と忙しいのかも知れないが庶民と交流をして教えを広めるのが僧侶の務めのはず、相手が中学生だから御布施も期待できないと思っているのであろう、所詮は金儲けなのかと思いました。

勿論、今では僧侶とは想像する以上に大変忙しいのだと言う事も分かっているのですが、当時の私って奴は。^^;

その次のお寺では、初めて副住職の方が親切に対応して下さったので少し感激しました。
ただ、(これも宗派は書きませんが)少し一神教に近い考え方をする宗派だったため、親切に話し相手になって頂いていながら申し訳ない限りなのですが、私にはやはり合わないと思いました。
あと、霊の存在はやんわりとでしたが否定されました。(笑)

やはり仏教も私には合わないかなと思いましたが、今まで行ったのとは違う宗派のお寺にも行ってみようと思いました。


数日後ですが、また別のお寺に行ってみました。
ここで少し運命的な出会いがあったのです。
御住職は出かけているとの事でしたが、応対して下さった御住職の奥様から
「御坊様とお話したいなら御住職のお兄さんが本堂にいるので行ってみてはどうか」
と言われたのです。

その言葉に従って本堂に行ってみると、御坊様が一人静かに本堂に座っておりました。
座禅を組んで瞑想しているように見えましたので、邪魔にならないように静かに本堂に入って、御坊様の後ろの方に座りました。


まだ続いてしまいます。長いですね、すみません。^^;


posted by 未熟な修行者 at 23:00 | Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

まだお話の途中ですが

2017年12月16日

長々と訳の分からない記事を書いている途中でございますが、ちょっと別のお話を。^^;

以前にパワーストーンの腕輪念珠(要はブレスレットですね)が切れた事は無いと書いたと思います。
御返事のコメントに書いたのだったか記憶が定かではございませんが。(笑)
割と作り直す事が多いので、切れるところまでいかないのです。
ところが先日、とうとう異常な切れ方をしました。

ある客先から戻る際の電車の中です。
割と空いている時間帯だったせいか悠々と座ることが出来、まだ空席もあるくらいでした。
最近ではスマホとにらめっこしている方も多いですが、私は電車移動の際には本を読んでいる事が多いです。
その時も座って本を読んでおりました。

お年寄りや妊婦の方がいらっしゃったら席を譲るつもりですので、駅に着く度に顔を上げて乗車してきた人を見るのです。
とある駅で、顔を上げるとそこそこ多い人が乗車してきました。
人が乗車してきた瞬間に、突然グワーッと視界が狭くなり、物凄く嫌な気配を感じました。

<これはまずい、多分なにか変なのが一緒に乗ってきた>

ずっと視界が狭いままで嫌な気配はしています。
もう本を読むどころではありません。絶対に周りを見渡さない方がいいと思いました。
本を閉じて鞄にしまい、顔を伏せたままにしているのが精一杯でした。
悪いのが近づくと涙目になると以前に書いたと思いますが、何故か涙目にはなりませんでした。
どこか途中の駅でいなくなってくれないかなと思うのですが、一向に視界も戻りませんし、嫌な感覚も消えません。

ひたすら顔を伏せたままでいましたが、そうこうする内に私が下車する駅に着いてしまいました。
割と降りる人も多い駅ですので、顔は伏せたまま立ち上がると流れに身を任せて、変なものは何も見ることなく降りることが出来ました。

後はついてきていなければ問題無しです。
駅のホームを足早に歩いている内に、普通の感覚に戻りました。
それでも念の為、あちこちのお店に寄り道しながら、自宅に戻りました。
全然大丈夫です。ついてきてもいないようなので安心しました。

私は腕輪念珠は出かける時以外は仕事部屋の隅にある祭壇に置いておりますので、いつものように腕輪念珠を置こうと思って祭壇の前まで来た瞬間、いきなりパンッと弾けるように切れてしまったのです。
あんな目にあった後でしたので、かなりドキドキしました。^^;
切れてしまっただけで石自体には変わった様子はなかったのですが、ひょっとしたら守ってくれていたのかなと。

そういう事がありましたと言うお話しでした。^^;


posted by 未熟な修行者 at 00:11 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

なぜ仏教に?(3)

2017年12月10日

続きです。

40年近く昔、やさぐれて小生意気で理解力も足らない中学生の時に救いを求めて色々な宗教に触れてみて、その時に感じた事を素直に書いています。
現在の私は他宗教他宗派の批判や否定をするつもりはまったくございません御理解下さい。
御信仰なさっている方にとっては暴言に聞こえるかも知れません。大変申し訳ありませんが、大昔の事と言う事で御理解、御容赦下さい。



聖書を読んだり教会に行ってみたりした結果、キリスト教(と言うより一神教の宗教)は私には合わないだろうなと感じたと言う記事を前回書きました。


それならば八百万の神様、つまり日本の神道が良いのではないかと。
まずは古事記や日本書紀を読んでみました。
ところがですね、本当に子供向けの童話に近いような記述のものか、完全に大人向けに書かれたもの、と言うどちらも極端なものしか見つけられませんでした。
子供向けの方は省略が多かったり、思い切ったデフォルメがされていると思われますので、なるべく正確に書いてある方(でも主要な部分以外はかなり短めに編集しているらしい)がいいだろうと言う事で大人向けの方を読んでみました。
年齢不相応な記述の物を読んでしまったためだと思いますが、中学生の私には今一つ理解できないところが多くありました。(聖書の方が分かり易かったです)

半年近くかけて年齢不相応な方を必死に読みました。
今なら多少分からない所があってもインターネットで調べればいくらでも情報が出てきたりしますが、当時は調べて分からなければ他の書籍で調べることくらいしか方法が無くて、いちいち時間がかかってしまったのでした。それでも分からない点も多く残ったままでした。
考えてみれば、神代から始まって、ある時期の天皇までの長い歴史が記述されているわけで、それを中学生が完全に理解できる筈などありません。

なので、試しに子供向けの方も読んでみたのですが予想した通りで分かり易いのは確かでしたが、理解出来なかった部分が多い所は丸ごと書かれていなかったり、かなり端折って書かれたりしていました。^^;

他の書籍も調べていたためか、余計な情報も色々と入ってくるわけです。
古事記も日本書紀も西暦700年過ぎに完成したものであり、その編纂は天皇が命じております。
つまり、当時の政治のトップにとって都合がいいように書いてある筈です。すべてが根も葉も無い虚構とまでは言いませんが、日本と言う国と天皇と言う存在の正当性を示すために虚飾も多い筈で、疑問点も当然のようにいくらでも出てくる訳です。その辺りは調べようもなく分からない事だらけです。

いくつか神社にも行ってみました。
神職の方に話を聞ければと思いましたが、基本的にはその神社の歴史、どんな御祭神かについて非常に簡潔なことは教えて頂けましたが、それ以上の説明はありませんでした。
簡潔な内容であっても短時間でもお話ししてくれた神職の方がいるのは随分とマシな方で、たいていは神職の方にも会えずに境内に立っている由緒書きの碑を見るように言われたり、パンフレットを渡されて終わりと言うのが普通です。
当たり前ですが、たかが中学生ですから大きな寄進があるわけでも無いですし、神職の方だってお忙しいわけで、長々とお話しに付き合ってくれるわけが無いのですが。
当然の事なのですが、具体的な相談などは事前の連絡をしてから親御さんと一緒に来て欲しい、と言われてしまいます。どう考えても極々当たり前の事なのですけれどね。^^;

でも、そんな事すら分からない、若くて小生意気な中学生はそれだけでもイラッとしました。(笑)
そんな対応をされればされるほど、たとえ相手が中学生だろうと救いを求めてやってきているのに、と神道自体に不信感が募っていくだけで、これは信仰するに値しないと思ったりしました。


もちろん、今は神社も大好きですよ。
特に信仰していると言う訳でもないのに助けてくれる神様がおられる神社もありますし。


まだ仏教が出てきていませんが、漸く次に出てきます。
しかし、失礼極まりない私は仏教にも反感を持つのでした。(笑)

続きます。


posted by 未熟な修行者 at 23:17 | Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

なぜ仏教に?(2)

2017年12月06日

続きです。

前回の記事は迷走しまくりの前置きだけでかなり長くなってしまいましたが、私がなぜ仏教を信仰するようになったのか不思議に思うらしく、その経緯も聞かれる事があります。正直、私の経緯などはどうでもいい話だと思うのですが。^^;

私の場合のきっかけは、たまに見えてしまったりとかで救いを求めてと言う気持ちだったのは事実です。

見えることがあるのが嫌、でも見えるだけで何も出来ないのが嫌、見えてしまいついてこられる事があるのが嫌、体調などに悪影響が出るのが嫌、そして見えるものを他人に言えば言ったで変わり者扱いされるのが嫌、場合によっては嘘つき呼ばわりされるのが嫌、最終的には見えてしまう自分自身が嫌、もう正直やさぐれました。(笑)
と言う訳で、信仰があれば少しは救われるかと思ったわけですね。

確か中学生の時だったと思います。
(過去の話ですので、現在でも当時とまったく同じように思っていると言う訳ではありません)
その頃の私が名前だけでも知っていた宗教としてはユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、あとは日本の神道くらいです。

ユダヤ教はユダヤ人だけの宗教のようで、ユダヤ人ではない私が信仰しても意味が無いかと。
実際はユダヤ教を信仰する者をユダヤ人と呼ぶ事もあり、人種的な意味だけでは無い事を当時は知りませんでした。

イスラム教は日本人向けとは言い難いらしいし、当時は日本語訳のクルアーン(当時はコーランと言っていた)も見た事が無いし、そもそもアラビア語じゃないと駄目らしいですし、モスクだって近所では見た事もありません。そんな状態ですから信仰しようとしても無理でしょう。

ヒンドゥー教も同様に聖典であるヴェーダの日本語訳のものなど当時は見た事すらありませんし、ヒンドゥーの寺院も近所にありません。こちらもそんな状態ですから信仰するのは無理です。あとカースト制度が根強く残っているのが気に食わなかったと言う理由もあります。^^;

仏教は、何だか古臭い感じがするし訳が分からないと当時は思ってました。(笑)

キリスト教は日本語訳の聖書もあるし、当時は身近にクリスチャンが非常に少なかったこともあって何か格好良さそうとも思いました。(笑)

日本の神道ですが、デフォルメされていない古事記や日本書紀を見れば神様の事はなんとなく分かるだろうけども、日本神話と言う物語の域でしか捉えられないんじゃないかと言う感覚でした。


まずは聖書を読んでみました。クリスチャンの方から分けて頂いた新約聖書ですので、きちんとしたものだと思います。
私個人の当時の受け止め方というだけであり、キリスト教を否定するわけではありませんので、誤解を招くようであれば申し訳ないのですが、読んでもどうもピンとこないのです。
読み物としては面白いと思ったのですが、奇跡は起こすわ、人々の原罪を背負って磔刑されるわ、復活するわで、あっさり言ってしまえば「キリストすげえ」みたいな事が延々と書いてあると感じたのです。もちろん素晴らしい教えも色々書いてはあります。

キリストはユダヤ教を公然と否定しています。ユダヤ教はユダヤ人と神との契約の宗教であり、ユダヤ人しか救わないとなっておりますし、それ以外にも様々な儀式や戒律がありますが、それらをわざわざ否定して貶める必要までは無いんじゃないかと思いました。その結果の磔刑で、人類の罪を背負い贖うためであったとか、神の言葉が真実と言う証明でもあるとか言われたりしますが、正直他にやりようは幾らでもあったじゃないかとも思ったりしたのです。

カトリック、プロテスタントのどちらも比較的近所に教会がありましたので何度か行ってみた事もあります。
神父さんも牧師さんも親切で、私の話しもきちんと聞いて頂けて、どういう教えなのかの説明もされました。
ですが、神を心から信じて、ただ神にすがる、よく言われるように「信じれば救われる」と言う話にしか思えませんでした。それも救われるのはこの世においてではないわけです。

また、私がそこで感じてしまったのは一神教の神の傲慢さです。
神の立場からなので当たり前でしょうけど、最終的には神の御心のままに、つまり上から目線だなと。^^;
つまり、信じなきゃ救わない、無信仰ならまだマシで、別の宗教を信じるものは悪魔とまで言いながら、その一方ではキリスト教では神は人を愛している、それは無償の愛だと言います。
信者しか救わないと言うのは見返り前提であり、無償の愛などと言ったものでは無いだろうと思いました。

例え信仰しても、霊が見えたりするのは神の意志、下手をすれば心から神を信じないから、と簡単に片付けられかねないと思いました。
あと悪口までは言ってませんでしたが、カトリックとプロテスタントって歴史の授業でルターの宗教改革として習ったように、実際あまり仲良くないんだな、でした。^^;

問題なのは救いというものがこの世での話ではなく死んだ後の話であるわけで、私としては今が問題なんだよ、と思ったわけです。
それでもミサに参加したり、聖書をもっと熟読すれば、何かあるのではと思いましたが、どうもしっくりと来ず、やはり違和感を感じます。

当時は他宗教を批判する聖職者も意外と多くおりました。公然と批判しないまでも暗に仄めかすような言葉を口にする方も普通におり、これが決定的でした。
キリスト教だけでなく一神教の宗教すべてにおいて感じる事なのですが、自分の信じる神は絶対的正義で、信じない者は悪という感覚、これがどうにも私には受け入れられませんでした。
この事を超極端な解釈にしてしまえば、悪は殺しても滅ぼしても構わず、それは罪になるどころか寧ろ神はその行為を祝福する、という思考にまで簡単に陥ってしまわないとは言えません。
もちろん、多くの宗教では殺人や争いを戒めていると思いますが、それすらも超えた神の意志と言い張ってしまえば、指導する立場にある者なら悪用しやすいわけです。
そんな極論は自身の宗教では説いていないと言うでしょうし原則的にはその通りなのでしょうが、現に宗教の絡んだ戦争や事件など歴史に多くの汚名を残しているという事実があるのです。

現世で救いが欲しいと言う超現実的な希望があったわけではありますが、そういう極端な解釈が可能なもので他者の思想を寛容に受け入れることは無いと言うところに違和感があったのです。

その当時から私自身は、人それぞれ考えが違うのは当たり前であり、それを一々区別して考えるのはバカらしい、と思っていたのですが、他者の思想を受け入れないような思想は私自身も受け入れたくない、と言うある意味でジレンマとも言える状態に陥って訳の分からない状況になりました。この説明分かりますかね。^^;
そういう訳で私が求めるものとは程遠く、キリスト教を素直に信じる気にはなれないと当時は思ったのでした。


心から信仰されている方にとっては暴言にしか見えないと思います。
40年近く昔、やさぐれて小生意気で理解力も足らない中学生の時に感じた事です。御容赦下さい。大変申し訳ございません。

現在ではキリスト教(に限らずですが)は、その教え自体は私の信仰とは違うからと言っても人様に迷惑をかけないのであれば何を信仰するのも自由と思っており、否定も批判もするつもりはありませんし、そのような立場にもありません。私の友人にも信者がおります。
何より、大半のキリスト教の信者の皆様がそうであるように教えに従って真面目に正しく生き、博愛的で他者にも優しい方が非常に多くいらっしゃることを存じておりますし、大変素晴らしい生き方だと思っております。


脱線&長文で未だ仏教の話が出てきておりませんね。(笑)
続きます。


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なぜ仏教に?(1)

2017年12月02日

「へ〜、仏教徒なんだ」
それに続けて変わってるね、と付きそうな感じですが、これよく言われます。(笑)
私と同年代の人でも、葬式と法事の時くらいしか仏教に触れない、そもそも何も信仰していないと言う人が大半です。

宗教を完全否定している国もありますし、特に信仰は無いという人も世界のどこにでもいますが、世界規模で見ると熱心かそうでないかは別としても何かしらの宗教を信仰している人の方が多く、信仰を持つ人を変わっていると思うような人の方が数が少ないのです。
逆に言うと信仰を持つ人を変わっている、と思う人こそ変わり者とみられる事もあります。
日本は信仰の自由がありながら、信仰を持っている人を変わっている、宗教を信じるなんて馬鹿らしい、と思ってしまう人の多い比較的珍しい国であると言えます。

元々、古代の日本人は「万物には神が宿る」として海や山や川、それに動物や植物、時には道端の石ころまで含めて、自然を敬って生活してきました。
更に言えば古来から信仰してきた八百万の神々に加えて、海外から入ってきた仏教やキリスト教なども自然に受け入れることが出来るという特有の柔軟さがありました。正月には初詣、お盆やお彼岸、宗教的と言うには程遠くただのお祭り騒ぎですがクリスマス、最近ではハロウィンなどまで受け入れる寛容さと言う下地があります。
それなのに現代では信仰を持つ日本人は少ないのは何故なのでしょうか。

神仏分離と国家神道と言う国が定めた信仰が理由でもあるでしょう。
これにより、信仰の自由を阻害するものでは無いと言いながら国家神道を国民に押し付け、他国との戦争になれば神(現人神=天皇)のおわす国が負けるわけが無いとまで言いながら敗戦しました。今まで神がどうのこうのと言っておきながら敗戦した途端に国が、天皇は神ではなく人であったと前言をあっさり翻し、国民は何よりも復興が大事として邁進する事になりました。
復興が大事なのは間違いありませんが、心の拠り所だったものを無視させたのです。この事が日本人が信仰に嫌気がさす理由の一因でもあるのではないかと思います。

宗教を大義名分に使った戦いの悲惨な歴史は学校で学びますが、それらの宗教の良い点、どういう教えかなどは詳しくは教えないわけです。宗教系の学校ではそうでもありませんが公立の学校では偏った思想になるのを防いだり、公平性を保つ目的の為にも教えることはありません。
教えられるのは宗教による悲惨な歴史ばかりですし、現在でも世界のどこかで宗教を大義名分にした争いがあるわけです。宗教自体が怪しげで争いを生むものでしかないと言う認識もあるのではないかと思います。

宗教が多額のお金をむしり取る事があるので嫌気がさしていると言う事もあるでしょう。
確かに現在は、昔からある宗教宗派であっても、信者からある程度のお金を頂かないとやっていけないところが非常に多いのです。
信仰する人自体が減ったことでお金が入らなくなり、その結果お金を頂く時には一人当たりから頂くお金、言い方はあれですが単価を高くせざるを得ないわけです。
それ故に益々、多額のお金がかかるという認識になり、更に信仰を持つ人が減ってしまうという悪循環も起こります。

訳の分からない新興宗教も多いと言う事もあるでしょう。
3年程前の統計だったと思いますが、新興宗教だけでなく昔からある宗教宗派も含めてですが、全ての宗教法人としての登録数は18万をゆうに超えていたと思います。
単立(特定の派に所属しない)の神社仏閣なども多くあるのですが、それを差し引いても異常な数であり、こんな国は日本くらいと言っても差し支えありません。
新興宗教と言うと、信者を騙してお金を巻き上げているというイメージをする方もいますし、新興宗教=カルト教団と見る方までいますし、実際にそういう所も多いのですが、そうでない所ももちろんあります。
ただ、やはり新興宗教絡みの事件も今までに何度も起きておりますので、宗教は怪しいものという認識が強くなってしまうのも不思議ではありません。

私自身は人がどんな宗教を信じるのも自由と思っていますし、無信仰であってもいいと思っているのは今迄に何度も書いております。
無信仰であっても初詣には出かけるという人は非常に多いと思います。信仰などではなく行事としてだと思います。
ただ、これは世界的に見たら非常に奇妙で不思議な光景であり、例えて言うなら年に一度だけ、クリスチャンでもないのに教会のミサに出かけたり、イスラム教徒でもないのにアッラーへの礼拝をしているようなものです。
こういった感覚は、身近に宗教施設が多くあり、信じていなくとも抵抗なく受け入れられる日本人特有の感覚かも知れません。宗教的下地と言ってもいいのかも知れません。
なので無信仰なのは勿体無いなと思う事も実はあります。(笑)


うわ、脱線しまくった前置きだけで終わってしまった。(笑)
続きます。

posted by 未熟な修行者 at 00:09 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

釈迦如来

2017年11月25日

仏様方の御紹介の第三弾です。
私は真言宗系ですので、真言宗での仏様のお話であり、目一杯の独断と偏見に満ちております。(笑)
また、御紹介する仏様の順序には特に意図はございません。
なお、他宗派での教えに異論を挟むものではございませんので御理解下さい。

仏教を語るに於いて釈迦如来様を欠かす事は出来ません。

日本での名前:「釈迦如来(しゃかにょらい)」
梵名:「シャーキャムニ」

言わずと知れた仏教の開祖です。
釈迦如来と紹介しましたが、釈迦牟尼如来、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼世尊、仏陀、世尊など様々な呼び方をされる事もあります。
梵名のシャーキャムニは尊称で、意味としては「シャーキャ族の聖者」になります。
人としての名前はゴータマ・シッダールタが一般的に知られています。

さくっと説明します。細かいところまで興味がある方は御釈迦様の生涯について書かれた本でも探して下さい。^^;

王族(実際は地方豪族とも言われます)の王子として生まれ、青年期まで何不自由なく育てられました。
ヤショーダラーを妃として迎え、ラーフラ(将来十大弟子の一人となった)という子ももうけました。
しかし、人間には生老病死という四苦がある事を知り出家します。29歳頃と言われています。

当時の思想家である高名な三人の師匠に次々と教えを請いましたが、どれも満足できるものではなく、その後の六年間は悟りを得ようと苦行に明け暮れました。
ある日の事、死の寸前までいくような苦行をしても悟りなど得られないと言う事に気づき苦行をやめます。
それから菩提樹の下に座って瞑想に入ります。
瞑想の間には様々な悪魔からの誘惑がありましたが、それを退け、遂に(法、真理の)悟りを得ました。35歳頃の事だそうです。

暫くの間は自身のみでその悟りの境地を楽しんでいたそうです。
と言うのも、人に教えを説いても悟りの境地を得ることは出来ないだろうと考えたからだそうです。
ところが梵天という神様が現れて衆生に教えを説くように言われたそうです。これを梵天勧請と言います。
そこから多くの人に教えを説くようになっていったわけです。
80歳で入滅(亡くなる)するまで精力的に旅をしながら教えを説いておりました。


説明がさくっとし過ぎですかね。^^;

真言宗では御釈迦様を重要視していない、などと批判される事があります。
実際にはまったくそんな事はありません。
御釈迦様の悟った「法や真理」そのものである大日如来様を敬うと言う事は、他の多くの仏様も敬うと言う事であり、もちろん御釈迦様を敬わない訳がありません。
御釈迦様を御本尊としてお祀りしているお寺が少ないのは確かですが、真言宗系のお寺で御釈迦様の誕生を祝う「花まつり」なども普通に行なうお寺が多いですし。

私も日々のお勤めでは御釈迦様を観想し、真言も唱えます。
稀に真言は御釈迦様の禁じた呪文ではないかと言う方もおりますが、礼拝用言語とされているサンスクリット系の言語で仏様を称える言葉や教え、仏様の功徳が説かれているのが真言であり呪文ではありません。知らない言葉だから呪文のように聞こえるとは思いますが。^^;


posted by 未熟な修行者 at 23:32 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

水子の誤解その2

2017年11月22日

前回の記事で書きました水子の件に関して、普段より反応が多くありました。
承認無しでと言うコメントも頂きました。そういったコメントも読ませて頂いております。
御返事コメントで書くには少し長くなりそうなので、補足の記事として書きます。

昔と今では水子の意味が違うと書きました。
仏教では生後まもなくして亡くなった乳児や乳幼児、又は死産した子供の戒名の下に付ける位号に「水子(すいじ)」と言うものがあります。(無い宗派もあります)
ここでは「乳児や乳幼児」となっております。もともとは生まれる事の出来なかった子供と言う訳ではありません。

水子という名前の由来には諸説あります。
古事記ではイザナギ神とイザナミ神の子供で第一子(日本書紀では第二子とされる)の蛭子神(ひるこがみ)が、生まれながらに不具の子であったため、海に流して捨ててしまいました。
いくら日本神話と言え、今の時代から見ればかなり酷い話と思われるでしょうが、似たような話は世界各地の神話に多くあるようです。
それはともかく、蛭子神は水蛭子とも呼ばれます。
それが転じて幼くして亡くなった子供を水子と呼ぶ、と言う説があるのですが少しばかり無理矢理な説であるような気もします。^^;
大変可哀想な話ではありますが、昔は貧困による間引きなども一部地域社会の中では正当化され普通に行なわれる事もありました。それを子供を海に流して捨てたと言う神話になぞらえて、間引きした幼い子供を水子と呼ぶようになったと考えられないこともないのですが真偽は分かりません。

水子供養自体は1700年代頃からあったようですが、極限られた一部で行なわれただけで世間にはほとんど知られていないようでした。
「七歳までは神のうち」という言葉がありますが、七歳くらいまではこの世に命が定着しておらず、そのくらいの歳までの子供はまだ神様のものであると言う意味があります。まだ神様のものだから亡くなってもすぐに生まれ変わってくると言う事で、葬儀すら行わない事もあったそうです。
医療の発達していない昔は、体の弱い子供は幼い内に亡くなってしまう事が多かったため、慰めの言葉でもあるのかも知れません。

ともかく、ある時点までは乳児や乳幼児の内に亡くなった子供を指して水子と言うのが一般的でした。

ところが1970年頃から、流産や堕胎などが水子であるとして扱われるようになりました。
戦後の日本で人工妊娠中絶が増えたと言うのも理由の一つですが、それは間接的な原因でしかありません。

直接的なきっかけは、占い師や霊能者、新興宗教が盛んに喧伝したからです。
無闇に命を奪う行為を戒める為ならば良いのですが、「水子の祟り」を大袈裟すぎるほどに喧伝し、利益や信者獲得の為に利用されるようになりました。
「水にする」という言葉の持つ意味を御存知でしょうか?堕胎する事を「水にする」と表現する事があります。
堕胎した(水にした)子供、つまり「水子(みずこ)」を、戒名である「水子(すいじ)」と絡めたのかも知れません。
そして現在では不幸にも流産してしまった場合でも「水子の祟り」を持ち出される事もあります。

既に書きましたように、私もY君も水子の霊は見た事は無いのですが、これは水子と言うものの解釈の仕方によって違います。
おそらく2歳くらいだろうと思われる子供の霊は見た事がありますので、昔の呼び方に従って乳児や乳幼児の内に亡くなった子供を指して水子と定義するのであれば見た事があると言えます。
ただ、前回の記事は悲しい事に流産してしまった件についての記事です。

私やY君、それ以外にも何人か霊を見る事が出来る知り合いはおりますが、相談された方からお金を取る人は誰もいません。(足代だけ頂く方はおりますが本当に交通費程度です)
そういう人は誰一人として、水子の祟りなどと言う人はおりませんし、流産の結果の水子の霊など見た事は無いと言います。
聞いた話では人工妊娠中絶を何度か繰り返した女性が少しばかり宜しくない霊にまとわりつかれていた事はあるそうですが水子は周りにはいなかったと言う事です。

幼くして亡くなった子供のため、そして子を亡くした親の気持ちを慰めるためのものが本来の水子供養であり、決して祟りがあるからとかそういった事ではありません。
つまり、水子の祟りなどと言う人は、それを理由に大金を貰う人だけなのです。

水子の祟りの大袈裟な喧伝が、無闇な人工妊娠中絶を減らすための役に立っていない訳では無いかも知れません。
ですが、それに関しては因果応報、自分の起こした行為はいずれ報いとなって返ってくるということを説けば済む話です。

故意ではなく、不幸にも流産や死産になった場合は無闇に恐れる必要はまったくありません。

posted by 未熟な修行者 at 23:56 | Comment(11) | TrackBack(0) | 日記

水子の誤解

2017年11月12日

ある時、懇意にして下さっている御坊様から珍しく御電話を頂きました。
その御坊様はまだお若い方なのですがとても素晴らしい方で、私の尊敬する御坊様の一人でもあります。
不思議な体験をした事はあるそうですが残念ながら霊を見る事が出来ません。
私が見える(時がある)と言うのは知っておりますし、私よりも霊能力の高い友人(Y君の事)がいると言う事も私が言った事があるので知って(会った事はない)おりました。

その御坊様に60代の女性から相談があったのだそうです。
御坊様にも守秘義務があるので詳しい事まで聞いた訳ではありませんが、結婚されて現在妊娠中の娘さんの事で、実は数年前に一度流産されているとのこと。
妊娠中は精神的に不安定になる事もあるためか、流産してしまった子供の、つまり水子が何らかの障りを起こさないか、特に今妊娠中の子に対して悪影響を及ぼすのではないかと非常に気にしているそうです。

流産した後に、その御坊様のお寺で水子供養もしており、更には教えに則った説明もされたそうです。
ですが、いざ新たな命が宿ったことで気になりだしてしまい、妊娠鬱のようになってしまっているとのこと。
御坊様は自分の力不足も感じ、なんとかならないものかと心を痛め、近い内に御自宅にも伺って水子供養をして娘さんの気持ちを慰めようと思ったそうです。

そう言えばと、見える私やY君の事を思い出して電話をしてこられたのです。
自分には見えないが水子の霊は見た事があるか、また何らかの障りを起こしているのを見た事があるか、と聞かれました。

とは言われても、私自身は水子の霊を見た事は無いのです。
あまり良くない事が続いており水子が原因かも知れないと言う相談を受け、見てみたら全く違う霊だったという事はあります。
しかし、私などは見えない時の方が多いのですし、偶々見た事が無いだけかも知れませんので、Y君に聞いてみてから折り返し連絡しますと言って電話を切りました。

Y君と連絡が取れて詳細をかいつまんで話をしました。
水子というものがまったくいないかどうかは分かりませんが、少なくともY君も今迄に見た事は無く、別の霊が水子のふりをしている、もしくは人が勝手に水子が原因と思いこんでいるだけではないかとの事でした。
先に書いた水子と思ったら全く違う霊だったというのは実はY君も一緒に見ているのです。
ただ、言葉で説明したところで妊婦さん自身は気にしてしまうでしょうし、水子のふりをした変なものがついていても良くないでしょう。

「時間がある時でいいなら見に行ってもいいよ〜」
との事でしたので御坊様にも早速電話をしてその旨を伝えました。
妊婦さんとその御母様も是非にとの事でしたので、お互いの都合を合わせて水子供養の為に妊婦さんの御自宅に伺う際に一緒についていく事になりました。

見に行ってすぐにY君と私には分かりました。水子ではない男女の霊が2体いました。
もちろん、私は見えない時期でしたが、御坊様との待ち合わせ場所に着く前にY君に強制的に見えるようにされています。
普段ならばそれほどたいした影響もないような霊なので放っておけばその内消えるとは思いますが、妊婦さんですから万が一の事があってもいけません。

Y君が、それくらいの霊を祓う事は造作もない筈ですが奇妙な事に
「水子はいませんけど別のが2体いますね〜。お坊さんが御供養してくれたらあの世へ行くって約束してくれたので御供養して貰った方がいいと思いますよ〜」
とわざわざ言い、Y君が御坊様と妊婦さんと御母様に霊の説明をし出しました。
ひとしきり説明すると
「じゃ、お前も手伝ってね〜。俺はいない方がいいからちょっと外に出てるわ、終わったら呼んで〜」
と言って出て行ってしまいました。

御坊様と二人で御供養をさせて頂きました。(私は御手伝い程度ですけど)
2体の霊はずっと立ったまま傍にいましたが、御供養終わりの最後の御鈴の音が鳴ったと同時に消えました。

Y君を呼び戻すと
「お、さすが〜。綺麗に消えたね〜」
と満足気です。私は小声で
「Y君が祓ったんじゃないの?」
と聞きましたが
「ん〜ん、御供養して貰うから、さっさとあの世に行けって説得しただけで俺はほんとに何もしてないよ〜」
と言っていました。

その後で、妊婦さんに生まれてこなかった赤ちゃんの霊は、悲しみ供養もしてくれたから安心して元いた世界に戻って次に生まれる準備をしているのだと思う、そもそも私達は多くの霊を見ているが水子の霊は見た事が無い、生まれてこれなかった赤ちゃんがいたと言う事を忘れずにいるだけで大丈夫と説明しました。

御坊様も改めて、水子というものの説明をして下さいました。
生まれる前の赤ちゃんは、まだこの世の穢れに触れていません。その清い魂はどちらかと言えば仏様に近い存在です。清いままですのですぐに仏様に迎えられます。
そして生まれなかった自分に愛情を持ってくれている親を見守っています。そして、いずれ時が来たらまた誰かの子供となって生まれてきます。
本来の水子供養とは生んであげられなかった命に対する親の悲しみと愛情を示すのと共に、親自身の気持ちを整理する為でもあり、そして故意の堕胎を無闇にさせないようにさせる為のものです。
水子を必要以上に恐ろしげな祟りなどと言うのは悪徳霊能者や金儲け主義の宗教者だけです。


医療体制の整っていなかった大昔は、流産なんて普通に多かったでしょうから。
そんなに恐ろしい水子の祟りなどがあれば、人間社会がここまで栄えている筈もありません。
ただ、言っておきたいのは祟りなど無いから堕胎しようが大丈夫と言う事では無いと言う事です。故意に命を奪って省みない場合には水子の祟りは無くても、いずれ必ず報いを受ける事になるでしょう。


この後、妊婦さん宅を出た後が大変でした。
御坊様がY君をいたく気に入った&興味津々で。(笑)


posted by 未熟な修行者 at 23:56 | Comment(18) | TrackBack(0) | 日記

霊が出入りするには

2017年11月06日

記事の更新が遅れてすみません。
少々忙しくしておりまして。そんな状況なのにちょっとした試みもしておりまして、それに失敗し霊の影響を少し受けてしまい、自らの首を締めるという羽目に陥りました。
若い内だったら無理も効いたのでしょうが、いい歳したオッサンにはなかなかきついのです。(笑)

だいぶ前にですが、霊の存在否定派の人から言われる事も多かったネタなのですが。
いえ、例え神仏を否定する人でも
「人それぞれだから別にいいんじゃない」
としか思いませんので、霊の存在を否定する人の事をどうこう思ったわけではありません。
いいネタがあったと喜んだだけです。^^;


私はそういった力はないので何も出来ないのですが、御相談された方の自宅に伺ってY君が行なう除霊に立ち会うケースがそこそこあります。
強制的に除霊する事も稀にありますが、霊を説得して出て行って頂く事が大多数です。
その際はドアや窓を開けて、そこから出て行ってもらう事がとても多いです。

また、ちょっとした霊を自分で何とかする記事でも書きましたが、ドアや窓を開けるのは綺麗で清浄な空気に入れ換えるためでもありますが、出て行ってもらうための出口として開けると言う意味もあります。

と説明するとですね、たまに
「霊なんだから壁も通り抜けられるだろ」
と言われる事があります。
霊の存在を否定する人から言われる事もあります。存在自体を否定しているのに何故そういう言葉が出てくるのかも分かりませんが。^^;


確かに壁だろうが何だろうが通り抜けてしまう霊もいます。
ただ、そういった霊はしつこくこの世に留まっていたり、タチの悪い霊である事が多いような気がします。
説得に応じてくれるようなものではありませんし、自分で何とか出来るレベルのものではない事もあります。

また、亡くなってからそれなりの時間が経過している霊や、生前の姿を留めなくなってきて黒やグレーのモヤみたいになっている霊だと壁でも何でも通り抜けているのは割と多い気がしますが、亡くなってからそれほど時間が経っていない場合、壁を通り抜けると言う霊はそれほど見ない気もします。

障害物をお構いなしに通り抜ける霊もいるのですが、通り抜けるのではなくて瞬間移動みたいなのをしている霊もいます。どういう事かと言うと、ドアや窓や壁の前で一旦フッと消えて、すぐにその反対側に現れるのです。見ている分には大違いなのですが、これも通り抜けていると言っていいのかと思います。

あくまでも私が今まで見ていたケースでは、原則的に新人(?)の霊だと閉まっているドアや窓、壁などを通り抜ける事は少ないように思います。
そういったケースが多いと言うだけで、勿論それに当てはまらないこともあり、新人でも壁も何もかもお構いなしで通り抜けている霊を見た事が無いわけではなく、新人の霊では通り抜ける事は少ないと言うだけです。

ちょっと妙な光景に思えるかも知れませんが、自動ドアの前でずっと立っていて、誰かが来てドアが開いた時に一緒に通る霊を見た事があります。
また、障子すらも通り抜けることはせず、誰かが開けるまで待っていて同じく一緒に出入りする霊も見た事があります。


勝手な憶測になってしまいますが、霊になって暫くの間はその霊自身の生きていた時の常識と言うか、肉体を持っていた生前がそうであるように、閉まっているドアや窓、それから壁などの障害物は通り抜けられないものと言う思い込みに左右されているのではないか、そして霊になって時間が経つと自由に通り抜けられると気付くのもいるのではないかと思います。

ただ、少し不思議なのは生きている人間が「通り抜けて入ってくる」と言葉にしただけで、霊が出入り自由になってしまう事も稀にあるみたいです。
と言うのも、外に霊らしきものがずっと立っていてこちらを見つめていると言う相談を受けた時、入って来れないために外に立っていた霊(ドアの上には御札が貼ってありました)だったようなのですが、相談者が「このままでは入ってきてしまう」と取り乱してしまった瞬間に、壁を通り抜けて入ってくるのを目撃した事があります。
相談者の言葉が、霊の思い込みを打ち消してしまったのかも知れません。と言っても気付かなかっただけで最初から自由に出入りしていた可能性も無いとは言えませんので真相は分かりませんが。


基本的にはそこらにいる霊がドアや窓、壁を通り抜けて入ってくると言う事はそれほどありませんので、無闇に恐れる必要はありませんし、どちらかと言うと生きている人間の方が「ここは霊は入れない」としっかり思っておくだけで意外と入ってこなかったり(お構いなしの霊もいますが)します。
人間の心の作用による一種の結界みたいなものですね。

人間の心って意外と強いので、心の作用による結界は馬鹿にしたものではないと思っております。
実際は何の力も効果も無い御札や魔除けであろうと、自身がこれで大丈夫と思い込める物を利用するのも手かも知れません。


ちなみに我が家では私の部屋だけ割と自由に出入りさせていますので入ってくる霊もたまにいますが、あまり悪そうなのは入ってきません。
部屋の中に祭壇を祀って修行者としての毎日のお勤めもしておりますので悪い霊は入って来れないと強く思っていますし、居心地も悪いでしょうから来ないのだろうと思っております。

と言っても、人の姿としてはっきり見える霊が障害物を通り抜けてる様子は割と気持ち悪いので、一旦消えてから現れる瞬間移動タイプの方がマシかなと。でも、それはそれでビックリはするから嫌か。
見えない時に、気配くらいだったら我慢する。^^;


posted by 未熟な修行者 at 23:39 | Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

すみません

2017年10月30日

現在、大変忙しくしておりまして新しい記事を書いている暇がありません。^^;

仕事もそうですけど、例によって(霊によって^^;)体調も少々崩してます。

仕事が忙しくなるくらいですので、体調悪化はそれほど大したことないです。

新しい記事は少しお待ち下さい。申し訳ございません。


posted by 未熟な修行者 at 22:39 | Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

不動明王

2017年10月23日

仏様方の御紹介の第二弾です。
私は真言宗系ですので、真言宗での仏様のお話であり、目一杯の独断と偏見に満ちております。(笑)
また、御紹介する仏様の順序には特に意図はございません。
なお、他宗派での教えに異論を挟むものではございませんので御理解下さい。

大日如来様を紹介しましたら、次は何と言っても不動明王様です。


日本での名前:「不動明王(ふどうみょうおう)」
梵名:「アチャラ・ナータ」

日本では特に信仰されている事の多い明王です。
明王とは簡単に言えば、仏敵を叱り飛ばしたり、時には力ずくでも言う事を聞かせる役目を持っている仏尊で、一般的に明王は忿怒つまり怒ったような恐ろしい顔形(例外あり)と姿をしています。
不動明王は、右手には宝剣、左手には羂索を持ち、背中側には迦楼羅炎の火焔光背を形作った像で現されます。
宝剣は悪行や煩悩を打ち砕くための諸刃の剣で、倶利伽羅竜王という炎を纏った竜が巻き付いた「倶利伽羅剣」で現される場合もあります。
羂索は敵意を持つ者や煩悩を縛り上げたり、衆生を仏の世界へ引き寄せたりするための縄です。

不動明王様は大日如来様の化身と言われているのですが、はい、ここから少しややこしくなります。(笑)
大日如来様の記事で「三身」という言葉が出てきましたが、密教では他にも「三輪身」と言うものがあります。
普通に教え諭しても言う事を聞かない強情で敵対的な相手に対しては「三輪身」の内、忿怒尊の姿の「教令輪身」で現れるとされています。
ざっくり言えば「教令輪身」とは命令してでも教えを説くための姿とでも覚えると良いかと思います。
つまり、大日如来様が優しく教え諭しても言う事を聞かず敵対する相手に対して、恐ろしい姿で現れたということです。
誤解して欲しくないのですが、大日如来様が衆生への慈愛に満ち溢れるが為、そのような姿を取ってでも教え諭そうという事なのです。

降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王(だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)と併せた五大明王の一人でリーダー格とされております。
日本では単独で造像されて祀られる事も多いのですが、インドや中国ではそういった事はまずありえないことで他の明王と一緒に造像されていたようで、更に言えばインドや中国では密教が廃れてしまいましたので新たに造像される事も少ないです。
その為か、不動明王様が日本だけの独自の明王だと信じ込んでしまっている人までおりますが、それは間違いです。
現に日本とは少し違った密教が伝わっているチベット密教では、日本ほど不動明王像は多くなく絵図の方が多いのですが、非常に大切な仏尊の一人とされており今でも篤く信仰されています。
(絵図を見ると日本の像とはだいぶ趣が違いますが)

他に何を書けばいいんだと思うくらいに日本での人気は凄くて他に書く事も思い当たらなかったのですが、不動明王様が日本独自の明王と言うのと同じくらい、訳の分からない間違いをしている人もいます。

それは不動明王様がヒンドゥー教のシヴァ神であると言う説です。
いつの頃からなのか分かりませんし、以前はそういう記載のある本まであったくらいで、未だにそう思っている人もいるようですが、実はこの説の根拠はどこにもありません。
シヴァ神が密教に取り入れられているのは確かなのですが、不動明王様ではありません。
明王の一人である「降三世明王(気が向いたら記事にします)様」によって、シヴァ神とその妻であるパールヴァティーが調伏されました。降三世明王様の像はこの二人を踏みつけている姿で現されます。
心を入れ換えた二人は「大自在天」と「烏摩妃」として仏教の天部の護法神とされました。

実はチベットではシヴァ神によく似たマハーカーラ(大黒天様)が二人を調伏したとされております。
そのよく似た容姿のせいでマハーカーラもシヴァ神であるという説まで出ました。更に言えばマハーカーラも忿怒尊なので明王によく似ております。
マハーカーラが後に明王として発展していった可能性はあるようなのですが、シヴァ神がマハーカーラや不動明王様になったわけではありません。
少なくともチベット密教の現地では不動明王様がシヴァ神だと言う説はありませんし、そういった記載のある資料もありません。

これは勘ですが、インドやチベットや中国から伝わった絵図ではシヴァ神もマハーカーラも明王も非常によく似ていたのと、文献の文章にはそういった諸尊の色々な名前もどっさり出てきます。伝わってくる間に翻訳された時点で間違えたか、もしくは忿怒尊と言えば不動明王様くらいしか知らなかった人がそういった資料を見て勝手に勘違いし解釈したために起きて広まったという可能性が高いような気がします。


少しは私らしい記事になったでしょうか。^^;

posted by 未熟な修行者 at 00:17 | Comment(7) | TrackBack(0) | 日記