霊に脚はあるか

2017年05月27日

直球なタイトル。(笑)

私が見える事があると知っている人から何回か聞かれた事があります。

結論から言うと
「基本的にはある」
です。

基本的には人間と同じ姿です。
ただ、ずっと同じ姿を保っている訳ではないので、ぼやーっと輪郭が薄くなったり、モヤのように人間の姿と思えなくなってるのもいます。そういう意味で脚が見えないのも腕が見えないのも頭が見えないのも、色々です。

でも、最初から脚だけ見えないってのもまったくいないわけではありません。頭や腕や脚が末端にいくにしたがってボンヤリとしてるのに、それ以外は割とはっきり見えることもあります。
霊の姿と言うのは霊自身がイメージしている自分の姿であって、霊自身が末端までイメージ出来ていないと脚や腕が見えないのかも知れないと思っています。

亡くなった時の姿で出てきているという可能性も考えられます。
ただ、交通事故などで血だらけになって亡くなった筈の方でも、傷一つない綺麗な姿で現れる事も多いです。
スプラッターなのもたまにいますけどね。脚や腕がちぎれてるなんてのも本当にごくたまにですが見る事はあります。
もしかすると自分の凄惨な遺体を見て、霊が自分の姿はこうなんだとイメージしてしまうせいなのかなと。


霊が見せようと思っている姿を見せられているだけなのかも知れません。
私ごときに真相など分かりませんが。(笑)


ただ、多くの場合は普通の人間の姿が多いです。
生きている人と違って違和感満載なので、霊だって分かる事が多いです。

posted by 未熟な修行者 at 22:57 | Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

釈迦十大弟子D

2017年05月15日

お釈迦様の十大弟子の最後の二人のお話しを書きます。
なお、@〜Cでもそうですが、出家順とか悟った順とか関係なく書いていますので誤解無きようお願い致します。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

阿那律
アヌルッダやアニルッダと呼ばれます。
日本での呼び方は「あなりつ」が一般的かと思います。
釈迦族出身でお釈迦様の従弟と言われております。
お釈迦様が悟りを開いた後に帰郷した時、釈迦族の多くの青年達と近隣の釈迦族王家の諸王子達も出家しており、その中には羅睺羅や阿難陀もおります。彼らが出家することを聞き、その7日後に自身も出家致しました。
この方の有名な話があります。
ある日、お釈迦様が祇園精舎で説法をしている最中に彼は居眠りをし、怠惰であるとお釈迦様に叱られてしまいました。反省した彼は以後、不眠不休を誓って常坐不臥(座ったままで、横にならない)を実践し修行を続けました。その様子を見たお釈迦様は彼の身を案じて「怠惰も過剰な苦行も煩悩であるから眠るように」と諭しましたが彼は固辞し修行を続けました。その為か彼は失明してしまったのです。
しかし、その代わりに肉眼では見えないものを見通す「天眼」(智慧の眼)という力を得ることが出来ました。その為、「天眼第一」と言われております。
他の経典では、彼が僧衣を繕おうと針に糸を通そうとしますが、目が見えないため糸を通せずに苦労している事を聞きつけたお釈迦様が「私が功徳を積ませて頂きます」と言って彼を助けたという話があります。彼は驚き、師にそんな事をさせる訳にはいかないし、仏陀であるお釈迦様がこれ以上功徳を積む必要があるのかと遠慮しようとしましたが、お釈迦様は彼に仏陀になろうとも布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの実践(六波羅蜜)を積み続けることが必要と説かれたと言います。
なお、お釈迦様の最後の布教の旅にも同行していて、お釈迦様の入滅後には葬儀の用意をさせたと言う説があります。

優波離
ウパーリと呼ばれます。
日本での呼び方は「うぱり」または「うぱーり」が一般的かと思います。
インドのカーストでも下層のシュードラの出身で、元は理髪師であったと言われております。
シュードラとは職業の自由も無く、主に苦役を行なう階級であり、その当時の宗教であったバラモン教を学ぶ事も許されておりませんでした。
阿那律や阿難陀が出家する際に彼らに付き従っており、主人である阿那律が出家する際にすべての所有物を彼に与えようとしましたが、彼はそんな金品よりもお釈迦様の教えの方が偉大だと言って断った上で自身も出家を切望し、結果的に阿那律達よりも先に出家する事になりました。
お釈迦様は出家した者には身分も地位も無く、唯一あるのは出家した順番であり、先に出家した者が兄弟子であると言いました。つまり、出家前には主人であった阿那律達も、先に出家した彼を兄弟子として礼拝したのです。これを見たお釈迦様は「釈迦族の高慢な心をよくぞ打ち破った」と賛嘆しました。
当時のインドとしては異例中の異例でもあり、革命的でもある「本来は人間に階級などない」というお釈迦様の教えが明確に示された事例の一つとして有名です。
彼は律儀な性格の持ち主で、戒律に精通して厳格にそれを守ったため「持律第一」と言われております。
お釈迦様の教団における規律は彼によって設けられたものが多くあり、お釈迦様入滅後の最初の結集では阿難陀が主に経を誦出したのに対して、彼は主に戒律を誦出しております。

posted by 未熟な修行者 at 00:10 | Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

釈迦十大弟子C

2017年05月08日

引き続き、お釈迦様の十大弟子のお話しを書きます。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

須菩提
スブーティと呼ばれます。
日本での呼び方は「しゅぼだい」もしくは「すぼだい」が一般的かと思います。
この方の出身にも複数の説がありますが、とても裕福な商家に生まれたそうで、一説によるとお釈迦様に「祇園精舎」を寄進した須達多(スダッタ)長者が彼の叔父であると言われております。
幼い頃から天才的な頭脳の持ち主だったそうで、僅か10歳頃には既に学ぶ事が無くなってしまったそうです。
その為、慢心して他人を見下し、粗暴な行ないをするようになってしまい、親からも見放され家を出ることになりました。
放浪の末に祇園精舎に辿り着き、お釈迦様の説法に深い感銘を受け弟子入りしました。
修行に励んで行ないをあらためた須菩提は、それまでが嘘のように諍いを起こす事がなくなり、とても温和な性格になりました。
これらの事から「無諍第一」と言われておりますし、温和な性格で人々から愛され尊敬されて多くの供養を受けたので「被供養第一」とも、「空」の教えをとてもよく理解していたと言う事で「解空第一」とも言われております。

羅睺羅
ラーフラと呼ばれます。
日本での呼び方は「らーふら」もしくは「らごら」が一般的かと思います。
お釈迦様の実子です。
王族の太子であったお釈迦様には実はもう二人の妃がいて、それぞれに子供がいて全員出家したと言う説もあるのですが本当かどうかは分かりませんし、悟りを開いたのは彼だけですので一子とされております。
実子である割には(実子だからとも言えますが)逸話も多い方です。
一番有名な逸話はラーフラという名前にまつわるもので、これは御存知の方も多いかと思います。
ラーフラとは「障碍」という意味であり、お釈迦様が出家するにあたって自分の子供を残していかねばならないと言う「障碍」が出来てしまったと嘆いて付けたのだと言う説があります。
個人的な意見ですが、おそらくこれは違うと思います。
当時のインドに於いては、ある程度の身分ある家では原則的に跡継ぎがいないと出家が難しかったようなので、跡継ぎが出来たという事は心置きなく出家できるようになりこそすれ、出家にあたっての「障碍」にはなりえません。
実際は釈迦族の紋章である「竜の頭」という意味を持つ方の「ラーフ」を使って「竜の頭を戴く一族を率いる者」という意味合いで「ラーフラ」としたのだと思います。事実、お釈迦様の父親である浄飯王がこの名付けを非常に喜んだという記録があります。
悪魔を意味する「ラーフ」という言葉もあり、後世にその連想で出家を妨げる「障碍」なのだという意味で「ラーフラ」と名付けた、というこじつけの説を作ったのだと思います。
羅睺羅が出家したのはお釈迦様が悟りを開いた後に帰郷した時で、その時に若くして出家しました。しかし、年が若かったので一人前の修行者である比丘ではなく、まずは沙弥(年少の見習い修行者)となりました。
その頃はお釈迦様の実子ということで特別扱いを受けて慢心があったようですが、20歳で比丘となってからは舎利弗について修行し、不言実行を以て密行を全うしました。
その為「密行第一」と呼ばれております。

posted by 未熟な修行者 at 23:41 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

釈迦十大弟子B

2017年05月04日

引き続き、お釈迦様の十大弟子のお話しを書きます。

実際には経典により微妙な違いがある場合もありますので、既知の情報と違ったとしても笑って流して下さい。(笑)

富楼那
プルナ、フルナあるいはプンナとも呼ばれます。
富楼那というお弟子は複数人いたようですので、弥多羅尼という女性の子である富楼那という意味で、富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)と書かれる事も多いかと思います。
日本での呼び方は「ふるな」が一般的かと思います。
出身も複数の説がありますので割愛しますが、お釈迦様と同い年であると言われており、十大弟子の中では一番早く弟子となったとも言われております。
柔和であり、弁舌に優れ、どんな人にも解りやすい説法をすると言う事で「説法第一」とされております。
阿難陀からも慕われ、また敬われていたとの事です。
晩年に故郷に赴いての説法をお釈迦様に願い出た際には、迫害や殺される覚悟をして尚説法に赴くつもりである事を宣言し、お釈迦様はその覚悟を褒め認めました。
余談ですが、迫害などがあろうとも耐え忍んで説法に赴き教化すると言うのは、富楼那に限らず多くの弟子達が普通に行なっておりました。と言いますか、敢えてそういう所に赴いている弟子が多いです。


迦旃延
カッチャーナ、もしくはカッチャヤーナと呼ばれます。
日本での呼び方は「かせんねん」が一般的かと思います。
出身も複数の説がありますが、その一つは生まれたばかりのお釈迦様(ゴウタマ・シッダルタ太子)がいずれ仏陀となるであろうと予言をしたアシタ仙人の元弟子であり、非常に聡明ではありましたが難解な偈文(教え)の意味が解読できず、お釈迦様に教えを請うた事がきっかけで弟子になったと言われています。ただ、弟子になった時期ははっきりと分かってはいないようです。
一度聞いた教えは忘れず理解できたと言われるほど聡明だったそうで、前述の富楼那とは少し違って哲学的な議論を得意としていたので「論議第一」と言われております。
(言い争うような議論の事ではありません、念の為)
故郷の王様から、お釈迦様に直に説法を聞きたいという依頼を受けましたが、お釈迦様から特に許されて自身が帰郷して布教に努めました。また、周りの王族と彼らの治める地にいる人々にも教えを説いて回りました。
更にはお釈迦様が入滅された後にも一心に布教に努め、迦旃延の布教がインドに仏教が大きく広がった要因であるとも言われております。

posted by 未熟な修行者 at 23:05 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記