今年は大変お世話になりました

2016年12月31日

こんにちは。

今年は思い付きでこのブログを始めてしまいました。
元々、(色々厄介事も持ち込まれるので)連絡先を直接教えたくない知り合いの方のために始めました。
ですがコメントを公開できない内容も多く、記事で返事を書くにしてもその中に個人情報を書かざるをえないケースもあるため、結局こちらから直接フリーメールを使い回ししてでも直接連絡しなくてはならない事も多くあります。
その意味ではこのブログはあまり役立っていません。(笑)

そんな中、どう検索して来られたのかそれ以外の方からもコメントを頂くようになりました。
今ではこちらの方がメインになっております。
私が好き勝手に書いているだけのこのようなブログにお付き合い下さいまして誠にありがとうございます。
もちろん単なる暇潰しでのコメントも有難く思いますし、ほぼ無いことと思いますが(笑)少しでも何らかのお役に立てれば幸いです。


本年の御厚情に心より感謝申し上げます。
皆様に良いお年が訪れますように。
来年もひっそりとノンビリした更新頻度でやっていこうと思いますので宜しく御願い致します。

posted by 未熟な修行者 at 11:16 | Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

年越しの祓

2016年12月27日

6月と12月の晦日(みそか)に行われる神社の行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月を年越の祓(としこしのはらえ)と言います。

実は、夏越の祓は気付いたら過ぎてまして、記事にできませんでした。(笑)
というわけで
「年越しの祓は忘れずに記事にするぞ」
とその時は思っていたのですが、またもや危なく忘れるところで、気付いたら記事にするにはギリギリではないかと。(笑)

「人形(ひとがた)」や「形代(かたしろ) 」と呼ばれる人の形に紙を切り抜いたものに、名前と年齢を書き、身体の左右左と三回撫でて、ふうっと息を三度吹きかけます。地域によっては体の悪い所を撫でると良いとも言われますね。
これは自分に溜った罪や穢れを人形に移し、神社でその人形を川に流したり焚き上げたりしてもらって祓ってもらうと言う行事です。

たいていの神社ではもう受け付けが始まっているはずです。
無料ではなく一応祈祷料が必要です。と言ってもだいたい数百円から千円程度です。
どこかの神社の氏子になっていれば、ほぼ必ず行なうようです。

だいたい大晦日の午後15時から16時頃に行われて、その後神社は怒涛のように初詣の準備に入らねばなりませんので、ギリギリに人形を納めに行く場合でもお昼くらい迄には納めに行く方が良いです。

ところで時代とでも言いましょうか、車の形の形代は少し前からありましたが、今は犬用の形代、猫の形代と、それぞれ犬、猫のかたちに切った形代を用意している神社もあるそうです。

祓って頂けば、より良い新年を迎えられるかも知れません。

posted by 未熟な修行者 at 01:33 | Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

仏様も派遣されてきてるの?

2016年12月24日

神社は必ずしも御祭神がいらっしゃるとは限らず、派遣されてきた神様がいると思うと書きました。
では、お寺はどうなのか?

仏様は常にお寺にいる訳ではなく、通常は仏様の世界におります。
お寺というのは教えを伝える場所であり、更には本堂などは仏様をお迎えできる場として整えられてあります。
その整えられた空間において仏像や仏画などが媒介となってコンタクトすることが出来ると言う形です。
必要とあらば、それら媒介となるものを通じ、その場に仏様にお越し頂くと言う形です。

実際の所、仏像や仏画が無くても仏様と繋がることは出来ます。
それは自身の心を仏様をお迎えする場として整えればいいと言うわけです。
ですので、仏様をお迎えできるように教えを守り正しく生きるという方法で心を整える者がいるのです。

お寺の本堂が仏様とコンタクトが出来るよう整えられているのは、未だ自身の心を整え切れていない者でも仏様とコンタクトを取ることができるようにするため、仏様が万人に救済の手を差し伸べることが出来るようにするための拠点でもあるわけです。

お寺は誰もが教えを請けることができ、仏様とコンタクトを取るための連絡所として機能すれば良いわけですから、常に仏様がいらっしゃるわけではありません。
いつでも真摯な願いで仏様に語り掛ければコンタクトを取れるよう、更に必要があらば仏様をお迎えできる場所となるよう準備を整えてあるというわけです。

そもそもがお寺という場所でなければならないと言う事は無いのです。
その場所でなければならないと言うのは執着そのものですから、本来仏教の教えではあり得ません。
自身の心にお迎えできるようにする事が本来の姿で、お寺でなければならないと言う場所の限定はありませんので、お寺に仏様が常駐される必要などどこにも無いわけです。

posted by 未熟な修行者 at 23:57 | Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

同じ神様があちこちにいるの?

2016年12月20日

同じ神様を祭神として祀っている神社は全国各地に非常に多くあります。
例えばおそらく日本で一番多いのは稲荷神社、次に八幡神社ではないかと思います。

稲荷神社の場合、主祭神として「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」、「保食神(うけもちのかみ)」などの神様が祀られている事が多いです。
稀にもっと他の神様の場合もありますし、名前が違っても同一神とされている場合もあったりで分かりにくいですが。
稲荷神社は、他の神社の境内にある末社だけでもかなりの数になりますし、個人宅に祀られていることも非常に多く、道端にある小さな祠まで合わせると、それこそ数も分からないくらい多いです。

八幡神社の場合、もう少し分かりやすくて、主祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」ですね。
誉田別命は応神天皇と言われております。
八幡神社の数もやはり凄くて全国に4万社以上あるようです。

「同じ祭神を祀っている神社ならば同じ神様がいるの?」
という質問がございました。
つまり全国に非常にたくさんある稲荷神社で主祭神が「宇迦之御魂神」だったら、どこの神社に行っても「宇迦之御魂神」がいるのか、という質問ですね。

稲荷神社の総本社である京都の伏見稲荷大社には「宇迦之御魂神」自身が、八幡神社の総本社である大分の宇佐神宮には「誉田別命」自身がいらっしゃるのだと思います。

全国の同じ神様を祀る神社では、総本社からの勧請、つまり神霊を分けるという分霊を行ない、その分霊をお祀りしていると言う事になっています。神霊は幾らでも分ける事が可能なのだそうです。
勧請された神社から更に他の神社への勧請という総本社以外の社から勧請される場合もあります。
ともかく、その理屈から行けば同じ祭神を祀っていれば同じ神様がいると言う事になります。

畏れ多い事ですが、実際はそうではないと感じます。
(私個人の感覚の話しですので間違っているかも知れませんが)

何と言えばいいのか分かりませんが、多くの場合は系統としては確かにその祭神の系統だと思うのですが、どうも違う神様がいる気がしてなりません。

私がどこかの神社でやらかして(笑)、拒否や拒絶を受けたにもかかわらず、同じ祭神であるはずの他の神社に行くとあたたかく迎えられる感じを受ける事があります。
分霊と言っても同じ祭神なのであれば、やらかしちゃった神社と同じ祭神の祀られる神社に行けば全部で拒否・拒絶されてもおかしくないはずです。
(心が広いので、すぐに許してくれたと言う事なら別ですが)

ともかく、この点が不思議ですので、実際には違う神様がいるんじゃないかと思えてしまうのです。
先に言ったように多くの場合、系統としては同じ系統の神様である感じはするのですが。
もしかすると勧請されてきた神社の場合には、総本社の神様の部下に当たるような神様が派遣されてきているのかも知れません。場合によっては祭神のお遣いである眷属の方だけが来ているのかも知れませんね。

古く歴史のある神社の場合には元々がその土地の神様を祀っていた場合である事も多く、本来の神様の名前は分からないままで時代が進んで祭神は誰々として体裁を整えなくてはならないこともあったのかも知れません。
場合によっては一番性格とか御利益が近いとされる神様の名前を付けただけかも知れません。
例えば何と言う神様か分からないが豊作を祈っていた祠があったので、いつの間にか食物や農業の神様である稲荷神であるとされて祀られるようになったと言う事もあったかもしれません。

なお、あまり有名ではない神社に行くと
「書いてある御祭神とは違う感じがするな」
と思うことも稀にあります。

基本的には勧請をお願いした神社から派遣されてきた部下に当たるような神様がいるんじゃないのかなと思っています。

神様の姿が見えたり会話できたりすれば、すぐに分かる事なのでしょうけどね。
私がたまに見えるのは見たくもない余計なものだけです。(笑)

posted by 未熟な修行者 at 23:46 | Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

即成仏できるとは限らず

2016年12月15日

戒名を頂くと言うのは仏弟子になると言う事です。

仏式の葬儀をあげた場合(宗派によりますが)、戒名を頂いて仏弟子になると言う形になります。
生前戒名と言って、生きている内に戒名を頂く場合も仏弟子になると言う事です。

仏弟子になると言う事は即成仏、つまり仏様になるのか?
即成仏できるのであれば御布施をして戒名を頂く意義もあるが、生前に悪事を働いて罪業の深い人は戒名を頂いて仏弟子となる葬儀をしたとしても成仏できるとは到底思えない。
となると戒名を頂く意味とは何なのか?

そのような趣旨の御質問がございました。

そもそも戒名とは仏弟子となって戒律を守る証として付けられる名前の事です。
元々の原始仏教には戒名と言うものは存在せず、仏教が中国に渡ってから習慣化したものと言われております。

中国では個人名として「姓=氏(うじ)」と「名=諱(いみな)」があり、それとは別に「字(あざな)」の三つを使っており、個人を「諱(いみな)」で呼んでいいのは親や主などの目上の立場の者だけで、立場は関係なく相手を尊重して敬意を示す場合には「字(あざな)」で呼ぶのが普通でした。
出家して仏弟子になるのは世俗を捨てたと言う事であり、親は勿論、国の君主にも支配される人間でなくなったと言う事で、たとえ親や君主と言えども仏弟子である出家者には建前上と言えども敬意を示して「字(あざな)」で呼ばせる必要が出てきて、いわゆる「戒名」と言う「字(あざな)」が使われるようになったようです。

仏教は中国を経て日本に伝わっていますので、出家して仏門に入った場合には師匠から戒名を付けて頂くのが当然の事となっておりました。

昔は故人となっても一般の人は戒名を頂くと言う事はなく、貴人に限られておりました。
高額な御布施をして戒名を付けて頂くという風習は、お寺の造営や改築の為に多くの寄進を集める手段として、寄進した者には貴人に限らずとも戒名を与えるという事例から始まり、それまで戒名など出家でもしなければ頂けないと思っていた一般の人も先を争うように寄進をして戒名を頂くと言うのが流行りました。

そして日本では仏教信者は死後に極楽に転生するという思想などの影響により、いつの間にか仏式葬儀は「故人を慌てて仏弟子にして成仏を願う」ものとなり、たとえそれまで信者で無かった場合でも故人には戒名を付けるのが当然のように行われるようになりました。
成仏とは仏様になって、輪廻から離脱し、極楽と言われる仏様の世界に生まれることです。

では、故人となって仏弟子になったと言う事は、仏様(亡くなった人と言う意味ではなく)になったのかと言うとそうとは限らず、あくまでも修行者という形になります。

亡くなられたら即成仏とされる宗派の方からは怒られるかも知れませんが、戒名を頂いたからと言って信心も無いまま悪行を積み重ねてきたような人まで成仏して極楽に行けるかと言うと、やはりそんな筈はなく、正しく生きてきた人の方が有利なわけですし、更に信心があればなお有利なわけです。

葬儀中にも葬儀後にもフラフラ彷徨っている故人の霊も見ております。
実際に見た酷い例としては、葬儀から数か月後に嬉々として形見分けしている親族達を凄い形相で睨み付けている霊を目撃しました。かなり高価な形見が多数あったのです。遺影に写っている穏やかな顔とは大違いでした。物への執着が強く残ったままの故人だったのでしょうね。
Y君から聞いた話ですが、葬儀後の数か月間、愛人に付き纏っていた霊もいたそうです。


戒名が無駄とは申しません。
檀家でもなく信者でもなく全く御布施もしてこなかった故人の葬儀にそれなりの御布施をして戒名を頂くのはたとえ僅かであっても故人の功徳となり供養となります。
生前に多少の善行を為し、概ね正しく生きていた方であれば、葬儀や戒名を頂く事が更なる功徳となるわけですから成仏も出来る可能性は上がるのでしょう。
数多の善行を為して正しく生きてきた方ならば、戒名が無くとも、たとえ葬儀がなされなかったとしても成仏される方もいるのでしょう。
ただ、悪行を為してきた方では、御布施をして戒名を頂いても少々の減刑という所でしょう。

戒名は供養の一つでしかないと思っていた方が正解でしょう。戒名を頂いたからと言って即成仏できるわけではないのです。

posted by 未熟な修行者 at 23:12 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

拒絶される神社もあります

2016年12月08日

一つ前の記事で素晴らしい神社と出会えた事を書きましたが、それとはまったく逆の場合もあります。

とある神社にお詣りに行った時の事です。
偶然、通りがかって見つけた街中にある小さな神社でした。
道路から見る限りでは、荒れている感じも嫌な感じも無く、古い小さな神社の割には綺麗に見えました。
社務所はありませんでしたので何処かの神社の兼務で、きちんとお祀りされているのかも知れません。

ついでと言ったら失礼ですけどお詣りしていこうと思いました。

ただ、手水舎はあるのですが水は出ておりませんでした。
粗塩も持参しておらず、仕方ないので浄めないままですが、御挨拶だけでもと思って祠の前に進んだのです。

すると急に、耳鳴り、目眩、頭痛が起き、どんどん酷くなっていきます。

最初、ひょっとしてこれは脳血管の病気では、と思ったのです。
人のいない境内の中で意識を失ったりしたら大変だと思いましたので、何とか境内から出ました。
ところが、不思議な事に境内から出た瞬間に症状がすっと軽くなりました。
念の為に道路脇でしゃがみこんでいたのですが、数十秒で完全に治まりました。

何だったのかと不思議に思ったのですが、やはり御挨拶だけでもと再び境内に入ろうとすると鳥居の前で既に拒絶されている感じを受けます。目の前に刃物を突き付けられているような進むに進めないという感覚が一番しっくりくると思います。
<これは絶対に入ってくるな、と言われているなぁ>
と思ったので、鳥居の前で手を合わせて頭を下げるだけで、その場を後にしました。

ついでと思ったのが失礼だったのか、浄めなかった(浄められたらしてますが)のが失礼だったのか、もしくは御先祖様と何らかの因縁があるのか。

よく分かりませんが拒絶される事は稀にあります。
鳥居の前で拒絶される感じが凄くて参拝を断念した事が2度ほどあります。
ただ、数日後に同じ神社に行っても何も感じない事もあるので、霊が見える時期があるのと同じように、神社でそういう事を感じやすい時期というのもあるのかも知れません。自分でも分かりませんけれど。

境内に入った瞬間や参拝直前に急に体調が悪くなる等の影響が出る事はまずありません。基本的には神様が奥に引っ込んでしまうくらいですね。
たいていそこまで酷い事にはなりませんので
「あれ?何か嫌がられているかな、まぁ大丈夫だろ」
と参拝してしまい、神様が奥に隠れちゃったと感じた事もあります。

直接障りがあるのかは試した事はありませんが、中には牛肉や豚肉、魚、卵、乳製品などを食べて参拝してはならない神社もあるようで、そういうルールを破っていながら忘れていただけかも知れません。

念の為ですが、あまりに拒絶が強いと感じた場合には素直に引き下がった方が良いかも知れませんね。

posted by 未熟な修行者 at 00:41 | Comment(18) | TrackBack(0) | 日記