信仰心と祈願

2016年09月29日

コメントで質問がありました。
とても個人的な内容でしたのでコメント公開の承認はしないまま、この記事を回答とさせて頂きます。

神社仏閣(と言うか神様仏様)にお参りして祈願する時、心から信じてお参りされていらっしゃいますか?
深い信仰とは言えないと言う方が大半でしょうし、別に信じてはいないと言う方もいらっしゃるでしょう。
過去記事にも何度か書きましたが、信仰が無いのは別に構わないと思います。

信仰が無いから願わないというならまだしも
「願いなんて叶った試しは無いから神仏は信じない」
と言う方も割といらっしゃいます。残念な事です。
願いを叶えて貰わなければ信仰しないと言う事で、宗教に対しての姿勢としては良くありません。
願いが叶わないから信じない、というのは喩えて言うなら
「入社したら一生懸命働くから先に生涯給与を全額くれ。くれないなら入社しない」
と言っているようなものです。これは誰がどう考えてもおかしな言い分だと思う筈です。

先に褒美をチラつかせて人心を従えさせようとするのは、悪魔や魔物などによる誘惑としている宗教が多いですし。


祈願する時には心から信じて祈願する方が良いのは当然ですが、それほど深い信仰心ではないけど、と言う方でも上記のような方よりは遥かに良い姿勢です。
人間ですから
「深く信仰している訳ではないから叶えて貰えないかも・・・」
と迷いや諦めの心が出ても不思議ではありません。
神仏は人間に迷いが多いことなど当然知っています。迷いの中にある少しの信仰心を慈しんでくれますので祈願してもまったく無駄と言う事はありません。

神仏を信じて叶えて貰えるよう祈願していても日頃の行ないが伴なっていない場合には無駄です。
正しく生きていない者はどんなに神仏を信仰していてもダメなのです。(それを信仰があると言えるかは別です)
ただ、必ずしも正しく生きられない者であっても、正しく生きようとしている者は救いがある場合もあるでしょう。


実際のところ、深い信仰を持っている人が祈願しても必ず叶うとは限りません。
深い信仰があっても、神仏は個人的なことだけでなく世界的宇宙的な視野で観て、長期的なスパンで物事を考えると言われておりますので願ってすぐ叶うとは限りません。
そろそろ叶えてやるかと神仏が思った時に、信仰心の欠片もなく悪い生き方をしていれば却下となるでしょうし、願いを叶えることが為にならない場合にも却下でしょう。
正しく生きる努力をし、願いが叶うよう自分でも出来る範囲の努力をする、だから何時か必ず叶えて貰える、と信じて祈願するのが正しいのです。

あと、蛇足ですが祈願すべきではない神社仏閣もたまにあります。
目安にしかなりませんが、寂れて荒れている所では神仏ではないものがいる事も多いので普通の方はあまり祈願はされない方が良いです。
また、実は人によって合わない神社仏閣と言うのが稀にあります。
ある程度の感覚が鋭い人でないと分からないかも知れませんが、神聖な感じがせず拒否されているような感覚がしたりします。別に障りがある事は無いと思いますが、祈願しても無駄かも知れません。

一番いいのは自分に合うと思える(気持ちがすっきり穏やかになれる)神社仏閣を見つけたら、そこに何度もお参りして根気良く祈願するのが良いです。

posted by 未熟な修行者 at 00:01 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

お彼岸です

2016年09月22日

個人的にはあまり意識しないので書き忘れておりました。(笑)
「お彼岸」でございます。

春分・秋分の日を中日(ちゅうにち)とし、前後3日を合わせた7日間を「お彼岸」と言います。
今日は既に中日ですが。(笑)

仏教では御先祖様のいらっしゃる世界である「極楽」を「彼岸」とも言います。その一方、私達が生きている現世を「此岸(しがん)」と言います。
「彼岸」は西に、「此岸」は東に位置すると考えられています。
春分の日と秋分の日は太陽が真東から昇って真西に沈むため、彼岸と此岸に通じやすい日と考えられ、この時期に先祖供養をするようになったのです。

お彼岸の期間の7日間は御先祖様に感謝をし、生きている人は六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を心がけ、正しき生きようと努力しましょう、と言う期間です。
「布施」は言葉通りの御布施や喜捨と考えてもいいのですが子供など家族に法施(仏法について教える)することも含まれます。
「持戒」は戒律を守りましょうと言う事ですが、守れないまでも守る努力はして、守れなかった場合は反省しましょうと言う事でもあります。
「忍辱」は怒ったりしないよう耐え忍びましょうと言う事。
「精進」は努力しましょうと言う事。
「禅定」は心を穏やかに安定させましょうと言う事。
「智慧」は悟りの事なのですが、上に書いた全てが成就できて初めて完成するとされています。勿論、悟れないまでも悟ろうと努力する事が必要と言う事です。

お彼岸の期間には御墓参りにも行きます。御仏壇があれば綺麗にして「おはぎ」などを供えるとなっています。秋は「おはぎ」で、春は「ぼたもち」を供えるとされています。
材料的には同じ物なのですが、秋は「萩の花」が咲くから「こしあん」「つぶあん」の「御萩(おはぎ)」、春は「牡丹の花」が咲くから「つぶあん」「こしあん」の「牡丹餅(ぼたもち)」だそうです。
(「こしあん」と「つぶあん」を逆に書いていました。修正後が一般的なようです。fさん、りんさん、御指摘頂きましてありがとうございます。 2016.9.23 0:24 修正)


お彼岸を私があまり意識しない理由は
「御先祖様に感謝し、正しく生きる努力はお彼岸の時期に限った事でなく普段から」
と考えているからです。

しかし、普段なかなか仏事を意識できない方には、大変宜しい習慣であるかと思います。
御墓参りに行ける方は是非行かれると良いでしょう。
御自宅に仏壇があれば手を合わせましょう。独り暮らしをされている、仏壇は実家にある、などで御仏壇のある家から離れていらっしゃる場合でも、心の中で御先祖様に感謝するだけでも良いのです。
そして、お彼岸の期間中はすべてを守れないまでも正しく生きようとほんの僅かでも努力をしてみるのが良いかと思われます。それが功徳となります。


ちなみに、この「お彼岸」ですが日本独自のものです。
他の仏教国にはありません。緯度と経度が違う他国では同じ日に太陽が真東から昇って真西に沈むとは限りませんので当然ですが。
また、「暑さ寒さも彼岸まで」と、彼岸を過ぎると暑さも寒さも和らぐと言われますが、今はなかなか当てはまりませんね。

posted by 未熟な修行者 at 10:10 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

天国はありません

2016年09月19日

遺影に向かって
「天国で待っていてね」
というシーンがありますが実は天国はありません。

無いと言い切ってしまうと語弊があるかも知れませんが天国があるとされるのはキリスト教であり、仏教には天国と言うものはありません。
ですから仏教徒、それから仏式の葬儀を行った者に「天国で待っていてね」と言うのは実は少しおかしな話なわけです。

念の為に書いておきますが、キリスト教でも仏教でも宗派によって考え方が違いますので主な宗派での一般的な考え方と思って下さい

キリスト教では地獄に落ちたら未来永劫地獄で苦しむとされており言い換えれば無期懲役です。天国に迎えられれば永遠の命を持って幸せに暮らせるらしいです。(神の国が実現とか復活などは別にして)

仏教では生前の行ないなどによって六道に生まれ変わるとされています。六道とは以下のようなものです。
天道苦が少なく楽が多い、寿命は非常に長い、但し煩悩があり解脱できない
人間道人間が住む世界、苦が多いが楽もある。唯一自力で仏教に出会える世界
修羅道怒りや苦しみに我を忘れ戦いを繰り返す、欲望を抑えることが出来ない
畜生道ほとんど本能だけで生きる、神や人以外の生物の世界、救いが少ない
餓鬼道欲望や飢えに苛まれ満たされることがない
地獄道罪を償わせるため、多種多様な苦しみを受ける世界

天道や地獄道は更に細かく分かれていて説明しきれませんが、基本的には輪廻転生を繰り返して六道のいずれかに転生するとされています。

しかし、諸仏諸尊の救いがあった場合や悟りを開いた者は解脱し、以後は輪廻転生することなく極楽で平穏に過ごせるとされています。解脱は輪廻転生の輪からはずれると言う事です。
天国に相当するものは、この極楽(浄土、極楽浄土などとも言う)ですね。仏様の世界です。
仏式葬儀を執り行えば即極楽に生まれ変わるとしている教義もあります。


仏教では例え地獄道に堕ちても罪を償って地獄道での生を全うすれば次の輪廻転生で別の世界に生まれ変われるとされておりますので、つまりは有期の懲役刑ということです。
この刑期も遺された者達が心から供養すれば短くなるとされています。これは情状酌量ですね。
更には仏様はどの世界の者でも救うと言う誓願を立てていますので、六道のいずれの世界であろうと仏様の救いがある場合があります。つまり恩赦とでも言いましょうか。
地獄道は戦時中の強制収容所、修羅道から餓鬼道の場合は刑務所収容、人道は更生保護施設収容くらいの感じでしょうか。(冗談と思って下さい)
天道は喩えが難しいのでパスいたします。(笑)

仏教では、善行を為し正しく生きて仏様の世界である極楽に生まれ変わること、つまり成仏が目標です。

日本は良い意味で様々な文化を取り入れるという寛容(?)な下地があり、バレンタイン、クリスマス、最近で言えばハロウィンなど様々な宗教のお祭りも違和感なく受け入れられるのが日本人です。
バレンタインやクリスマスやハロウィン(キリスト教の祭りですら無い)などを宗教儀式として受け止めている日本人など殆どいないと言うのは別としても。(笑)

ですから色々な宗教が混ざってしまった結果により
「天国で待っていてね」
と言ってしまうのは残された者の哀悼の気持ちとしては問題はないのですが、仏教的には正しくはないのです。
実際、葬儀等の席で遺族がそのような発言をした時に、言葉には表さなくとも
<いやいや、天国ではないんだけどなぁ・・・>
と思ってしまうお坊さんは割と多くいるそうですよ。

以上、超屁理屈記事でございました。

posted by 未熟な修行者 at 01:10 | Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

縁結びの誤解

2016年09月15日

前回の記事で少し触れましたが、縁結びの御利益を誤解されている方が多いです。

縁結びというのは男女の仲で言えば、既に知り合っている相手と強い縁で結ばれますようにと祈願するものです。
もちろん男女の仲だけでなく、仕事の取引先や友人同士の結びつきなどの祈願も含まれます。

「良い縁が見つかりますように」と縁結びで有名な神社仏閣にお参りされる女性が多いですが、既知の相手がいて「この人と結婚したい」と思っている場合は縁結びで有名な神社仏閣にお参りすると良いのです。

意中の相手が見つかっていないのに縁結びの祈願はちょっと違うのです。
それから意外と多いのが、ファン心理からなのか好きな芸能人との縁結びを祈願される方もいるようですが、これは「熱心なファンになれますように」と言う意味ならばOKですが、芸能人と個人的に付き合いたいとかいう縁結びにはなりえません。
なぜなら、自分が一方的に相手の事を知っているだけではダメで、相手も自分の事を知ってくれている必要があるのです。もちろん目が合った事がある程度ではダメですよ。(笑)

今はまだ友人だが恋人同士になりたい、恋人同士なので結婚したい、友人と強い友情で結ばれたい、営業に行ったものの今一つ反応が悪いが取引が出来るようになりたい、などのように今より深い結びつきを祈願するのが縁結びです。

但し、神様は将来的な事や世の中全般の事も含めて大きな視野で見ますので、宜しくない相手との縁結びは叶えてはくれないらしいです。


まだ相手がおらず、良い相手と巡り会いたいという場合には縁結びではなく良縁祈願にするべきです。
この良縁祈願にも良い取引先を見つけたい、良い友人となれる人と知り合いたい、お金との縁が欲しいなども含まれたりすることがあります。

日本中に良縁祈願の神社仏閣がありますので、まだ特定の相手はいないという場合にはそちらへどうぞ。
(縁結びと良縁祈願どちらも大丈夫と言っている神社仏閣も多くあります)

相手がいない場合には、まずは良縁祈願で良い相手を見つけて、それから縁結びの祈願でさらに深い結び付きを祈願するという順序が正しいです。


なお、良縁祈願をしたからと言って、閉じこもっていたり、人とのかかわりを避けていたりするようでは神様も叶えようがないそうです。
縁結び祈願も同じで、相手が嫌になってしまうような事をすればダメなのは当然で、縁が結ばれるよう、更に言えば結ばれた縁を大切にする自分自身の努力は絶対に必要とのことです。

神様はほんの少し手助けをして下さるだけで、最終的には自分次第と言う訳ですね。

posted by 未熟な修行者 at 21:47 | Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

惜しい、と思いました(笑)

2016年09月10日

仕事で出掛けた先に、とある有名な神社がありました。
こちらの神社は縁結びの御利益があると言う事でお若い女性には人気があるようです。
そもそも縁結びと言うもの自体を誤解されている女性がとても多いのですが、その話はまた今度。

物凄く近くまで行ったのに御挨拶無しと言うのもなんですが、なにしろ仕事の合間ですので失礼ですが非常に簡単に参拝させて頂きました。

鳥居の下で一礼して参道を進み手水舎の所まで来ると、若い女性お二人が浄めている最中でした。
一人の女性が
「まず左手を清めて〜、次に持ち替えて右手を清めて〜」
と説明しながらです。

最近の若い人ですと親御さんからもお詣りの作法を教えられている人が少ないので、一緒に参拝している人が教えているというのも割とよく見る光景です。
教えられている方の女性は、左手にかけた時点で柄杓の水を使い切ってしまったりで、慌てて水をすくい直したりしてました。
(柄杓にすくった一杯の水だけで行なうのが本来の形ですけれど)
きちんと作法を教えている女性と、一生懸命作法通りにしようとする女性お二人は微笑ましかったです。

次に私の前で待っていた若い男性二人が手水舎に進んでお清めを始めました。
そこで初めて気付いたのですが、てっきり柄杓が二本しか無いのだと思っていたのですが五本あるじゃないですか。
待っていたお二人の男性も若い女性と一緒に手水舎を使うのが気恥ずかしかったのかも知れません。(気持ちは分からないでもないですが)

私の後ろにも人が並び出していたので私はお二人の男性の横に入らせてもらい、最速で手水舎でお清めする事にしました。
私は慣れているので手水舎でのお清めは早いです。きっちりと作法を守っても最速だと10秒かかりません。
柄杓を持ち慣れていると言うのもどうなんだろうと思いますが。(笑)
先に清め始めていた男性お二人が終わった直後に私も終わりました。

そして参道に戻ってビックリ。
先程の若い女性二人も男性二人も参道のど真ん中を歩いています。
<ええ〜、知っているのは手水舎でのお清めの仕方だけ? 惜しいな〜>
と思わず苦笑しました。

と言うか、お参りに来ている人のほぼ全員が参道のど真ん中を歩いていました。
理由はすぐ分かりました。どうやら御賽銭箱の前、真ん中でお参りしたいようなのです。
並んで待っている人がいるくらいでした。

以前にも書きましたが、参道の真ん中は神様の通り道なので端を通るべきです。
御賽銭箱の前の真ん中で、と言うか御神体のまん前に立って拝むのも失礼に当たります。
人が多い場合などには仕方ありませんが、まん前ではなく右か左にずれての御参拝が神様に対して敬意を表すとされています。

そして御賽銭を放り投げている人が多い。と言うか殆どの人が投げてます。
これも大変失礼です。そっと入れましょう。

我々人間だって失礼な人の頼み事など聞きたくありませんよね。
温厚な神様なら許して下さるのかも知れませんが、神社に祀られている神様は元々が祟り神である場合もあります。そして神様の手足となって時に直接的に御利益を授けて下さる神の御遣いは温厚ではない事も多いです。

そもそもが頼み事をするのならば相手が人間だろうと神様であろうと、礼を尽くすべきなのは当たり前のことです。
御利益を頂きたいのであればきちんと礼節を守った方がいいのは当然です。

本当に「ああ、惜しい!」と思いました。(笑)

posted by 未熟な修行者 at 23:24 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

やっと参拝に行けました

2016年09月01日

一件の仕事が日時変更になり、3時間程の時間が空きました。

<これはチャンス!!>
とばかりに、お寺に参拝してまいりました。

どこのお寺かは内緒ですが(笑)、都内にある真言宗智山派のお寺です。
そして何より嬉しいのが、いつでも本堂に入って参拝していいという、とてもありがたいお寺なのです。
(勿論、参拝可能な時間は決まっていますが)

御住職はお怪我をされているそうで出てこれず、副住職は出かけられておりましたので、御住職の奥様が対応して下さいました。

御参拝自体もそうなのですが本堂に入らせて頂ける事も久しぶりなので、思う存分たっぷりと仏様とお話させて頂くつもりでした。
まずは御本尊様に礼拝し、そして色々とお話を。
これだけで20分ほどでしょうか。(笑)

奥様がいらっしゃって御本尊の由来など色々と御説明して頂いたり、海外からも御参拝者がいらっしゃる事とか御住職の来歴などもお話し下さったり、お飲み物を出して下さったりと大変親切にして下さいました。御住職とお話するのも楽しいのですが、御住職の奥様とのお話も楽しいです。

そして再び御本尊様とお話の時間です。また20分ほどです。(笑)

そうこうしていると
「すみません、御朱印を頂けますか」
と、本堂に入って来られた方がいらっしゃいました。
本堂に入ってすぐ横には参拝者の方が寛げるようにテーブルと椅子が幾つか置かれております。
そこで御朱印を頂きに来た方と奥様が会話していらっしゃいます。

<あ、私が御本尊を独り占めしていてはいかんな>
と思って下がりました。奥様も御住職に御朱印を書いて頂くために庫裡に戻られました。

御朱印を頂きに来られた方はとても綺麗なお嬢さんでした。
私の娘と言ってもおかしくないくらいの年齢だと思います。

「こんにちは、御朱印を集めてらっしゃるのですか?」
とお声をかけました。
「はい」
「もう結構集められたのですか?」
「いえ、まだ最近始めたばかりなんです。昔からお寺が好きで御朱印にも興味があったので・・・」

決して変な下心で話しかけたのではありませんので誤解無きように。(笑)
私はお寺に参拝に来ておられる方には割と気楽に話しかけてしまいます。
ちょっとした仲間意識と言いますか、嬉しくなっちゃうのです。
お寺に用があるとは思えない強面をした男が黙ったままでいたら、それこそ不気味ですし。

そのお嬢さんも御本尊の前に移動して拝まれました。私はその間に本堂内を再び色々見学です。
お嬢さんは2〜3分程で御本尊の前から下がられ、先程の椅子に戻りました。
(もっとたっぷり拝んでいいのに、と思ったり)

なので、私が再び御本尊の前に座らせて頂いて会話です。今度は10分くらいです。
一般参拝者とは言えませんので、妙な動作をしている私を変に思ったかもしれませんね。(笑)

そして本堂を後にいたしましたが、1時間近くいたと思います。
おかげさまで、すっかり癒されました。とても良いお寺でした。
ありがとうございました。

posted by 未熟な修行者 at 00:24 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記