御朱印を頂く際のマナー

2016年02月26日

御朱印を頂く際にも是非守っておきたいマナーがございます。

本来、御朱印とは書写したお経を寺社に納める「納経」を行なった証として頂くものでしたが、いつの頃からか納経せずとも寺社に参詣した証として御朱印を頂くことが出来るようになったそうです。

御朱印は300〜500円程度(300円が一番多いようです)をお納めすれば頂ける寺社が殆どです。
無料で頂ける寺社もあります。(気持ち程度の御賽銭をするのがベスト)

教義などの理由によって御朱印を頂けない宗派(浄土宗や浄土真宗の寺院が多いです)もございます。
人的・時間的余裕が無いために御朱印をお授けすることが出来ないという寺社もございますので「御朱印は頂けますでしょうか?」と丁寧に確認するのも良いでしょう。

神社とお寺の御朱印は一緒にできないと言われる寺社もございますので、なるべく神社とお寺は別々の御朱印帳を用意しておくのが望ましいです。
また既に他宗派の御朱印がある御朱印帳には出来ませんと断られる寺社もあるようなので、これも確認された方が良いでしょう。

もし、上記のような理由で「この御朱印帳には出来ません」と言われた場合でも、御朱印帳に直接書いて頂くのではなく御朱印を書いた半紙を頂ける場合もあります。
「別途、御朱印帳を用意して貼らせて頂きますので頂戴できますでしょうか?」と言えば、まず問題無く頂けると思います。
もちろん後できちんと専用に御朱印帳を用意して貼って下さい。
その寺社で御朱印帳を販売していればそちらを購入して御朱印を頂いても良いです。

なお寺社によっては御朱印授け所が混み合うなどの理由から、御朱印帳をまず預けてから参拝して下さいと言われる場合もございます。先に御朱印授け所で確認されると良いでしょう。

寺社は夕方くらいには閉まってしまう所も多くありますので、なるべく午前中〜夕方前くらいまでの時間にしておくと良いです。また昼食の時間帯などはマナーとして避けるのが望ましいです。


御朱印を頂くのは特に理由がない限り原則的には参拝してから頂くものです。
普通に参拝するのと同じで手水舎で手と口を浄めてからきちんと参拝して下さい。
その後、御朱印授け所で授けて頂きます。

御朱印を書いて頂いている間は静かに待ちます。
飲食やお喋り、携帯を触っていたり、電話で話していたりは失礼です。

注意点ですが、御布施や初穂料という形でお金をお納めして御朱印を頂くものであり、品物を買う訳ではございませんのでお釣りというものは道理から言えばありえません。
普通にお釣りが戻ってくる所が殆どではありますが、マナーとしてきちんとお納めする金額の小銭を用意しておくのがベストです。

あと御朱印を頂いたら最低でも「ありがとうございます」とお礼を言いましょう。
神仏に代わり寺社にお勤めされている「人」が書いて下さるのですが、御朱印そのものは神仏から授けて頂けるものであります。
可能であれば、御朱印を頂いた後には本殿や本堂の方向を向いて感謝の一礼をするのも良いでしょう。

御朱印はお守りや御札と同じと思って大切に保管して下さい。


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御朱印集め流行っていますね

2016年02月23日

最近、寺社を廻って御朱印を集めるのが流行っていますね。

御朱印集めの流行自体は悪い事ではないと個人的に思っております。
どんな理由であれ少しでも寺社に興味を持ったり、場合によっては信仰の端緒にならないとも限らないですし。

宗教法人は丸儲けとだ思っている方が非常に多いですが、参拝者の絶えない有名な寺社以外は割と内情は苦しい所も多くあります。(実際、丸儲けの所もあると思いますが)
お堂の修復など莫大な維持費用も必要ですし、参拝者が多い寺社であっても参拝者の為の冷暖房や照明などで光熱費が嵩んでしまっている所もあります。
そういった寺社にとっては御朱印を頂く際にお納めして頂くお金は非常にありがたく助けになる事もあるようです。

そういった事まで考えれば、あながち悪い事ではないと思っているわけです。


しかし残念なことに本当にスタンプラリー感覚なのか本殿や本堂で拝むどころか寄りもせず、社務所や寺務所に直行して御朱印だけ頂いたらそのまま帰るという人が普通にいらっしゃいます。

心から信仰していないとしても、簡単で構わないので拝んでいかれるべきです。
真言密教系を信仰している私も普通に神社とか他宗派のお寺さんで御朱印を頂戴する事があり、もちろんその際には「これでもか」と言うくらいに手を合わせて拝ませて頂いています。

例え簡単であっても礼を尽くす人を嫌だと思う神仏はいませんので、拝んでおけば何等かの御利益があるかも知れませんよ。

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キリスト教式の葬儀

2016年02月18日

日本では仏教での葬儀が多いためか、キリスト教式での葬儀に出た事が無く、どうすればいいのか不安に思う方も多くいらっしゃるようです。

参列する場合の服装については普通に喪服で大丈夫です。
キリスト教だからと葬儀にロザリオを用意して身に着けていく必要はありません。と言うか葬儀にロザリオは不要なようですし、信者ならまだしもですが信者でない場合は失礼と見做されてしまいかねません。
アクセサリーを付ける場合は真珠の物のみです。

カトリックかプロテスタントのどちらかだと思いますが、若干ニュアンスや葬儀の流れは違いますし、更に教派や葬儀を行なう場所によっても違う所もありますが、原則的にそれほど不安に思う必要はありません。
大体は周りの人を見ていれば行なう動作などは分かると思います。

初めてだと戸惑う点としては
聖歌(カトリック)、讃美歌(プロテスタント)、聖書の一部を参列者で斉唱する事があります。
斉唱に参加せずに聞いているだけでも問題はありません。
たいていは事前にそれらの一節が書かれた紙が配られますので、微かな声でも構わないので「故人のため」と考え斉唱に参加するのが望ましいです。
信者の方が十字を切る事があるかも(たいてい無い)知れませんが信者以外は行なう必要はありません。

献花という作法がある事も多いのですが、これも戸惑いがちですね。
仏教だと棺の中に故人を囲むようにお花を入れる事がありますが、キリスト教式ですと献花台や祭壇に献花する事があります。
これは難しい事ではないのですが説明しにくいので
「キリスト教 葬儀 献花」で検索して調べて下さい。

また、御香典をどうすればいいのか分からないという方が多くいますが、キリスト教の葬儀用の熨斗袋か白無地の封筒に表書きとして「お花料」と書いて包んで持って行くのが無難です。金額は仏教葬儀の場合と同じ程度で問題ありません。

一般参列者から呼びかける事は無いと思いますが、一般的にはカトリックでは「神父」がプロテスタントでは「先生」と呼称される方が式を行ないます。間違えて呼ばないように御注意を。

あと注意点としては
「遺族にお悔やみの言葉を述べてはならない」
という事があります。
これは死生観の違いであり、キリスト教では死は神の御許へ召され永遠の命が始まるのであり不幸な事ではない、と考えるからのようです。(そうでない場合もありますが)
「天に召された○○様が平安でありますように」程度をお伝えするのが無難なようです。

それから、キリスト教式の葬儀に数珠を持ち出し拝んだ人の話をたまに聞きます。
公に注意されることは殆どないと思いますが、何教の葬儀であろうが自分の信仰をゴリ押しするのは宜しくありません。
キリスト教の葬儀に参列するなら、失礼に当たらない程度にそのマナーに則って参列すべきです。
他宗教の儀礼とマナーに従ったからと言って、自分の信仰が崩れるわけではありません。

どんな宗教の葬儀に参加する場合でも、大切なのは故人を尊重する気持ちです。

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たまに見えるあれは何だろう

2016年02月10日

ここ2年程ですが、たまに視界の隅の方で黒くて丸い何だか分からないものを見る事があります。
「ん?」
と思った時には消えているのですが。

ツヤの無い黒い毛で覆われたようなバレーボールより少し小さいくらいの丸い物がふわ〜っと浮いて移動しているのが見えるのです。

その物に対しては嫌な感じも無いのと、私自身それなりの年齢にもなっていることですし、最初は眼病かと疑いました。
でも、眼科で診察も受けましたが異常無しでした、老眼以外は。(笑)

常に見えるわけではありませんし、場所も限定はありません。
しばらく自宅で何度か見かけたと思ったら、今度は外出先でしか見なくなったりで。
動き方もその時々によって違いますし、まれに2つ同時に見ます。

何なんだかまったくわかりません。


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見えるからではありません

2016年02月08日

「見えるから修行してるの?」
とか
「霊能者になりたいの?」
とか聞かれます。

修行しているのは信仰しているからであり、見える事とは関係ありません。
でも、まったく関係無いと言うのは言い過ぎかもですね。
見えてしまうからこそ守ってもらおうと思っているという理由も少しはあります。

霊能者になりたいわけではありません。
なりたくもないですし、見えてしまって怖いとか近付きたくないとか思うだけの私がなれるとも思えないです。

それに・・・見えるだけ程度の私ごときでも、明らかに「それは違うだろ」と思うようなことを堂々と言う霊能者もいます。

人の不幸につけこんでお金を稼いでいるように思えます。

そもそも霊能者ってものも何なのかよく分からないです。


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悪魔の教えと言われた

2016年02月02日

前回の記事の冒頭に少し書きましたが、特定の宗教や宗派を名指して「邪宗だ」とか「インチキ」とか「悪魔の教え」だとか声高に言う方が実際におられます。

実際にそういう事を言われてしまった経験がある方とお話しさせて頂いた事があります。

仏教の某宗派を信仰されている方が、某宗教の熱心な信仰者の方に言われたのが、要約すると
「あなたの信仰している○○は悪魔の教えだ。家族に限らず子孫までが不幸になる」
と言われたそうです。

また、
あるカトリックの信者の方が、某宗教の熱心な信仰者の方に言われたのが、要約すると
「キリスト教は何かあるとすぐに神や信者がたくさんの人を殺していたじゃないか」
と言われたそうです。

僧侶や聖職者の立場からは細かい説明や反論をできると思いますが、物凄くあっさり言ってしまえば
「まったく気にすることはない」
ですね。

邪な新興宗教を信仰しているのならば言われても致し方ないですが、歴史的に数百年以上あるような宗教宗派であれば言われる筋合いはありません。
言われるほどの悪い宗教宗派であればとっくに廃れている筈ですから。

自分の信仰している宗教が一番だと自負したい気持ちは理解できないわけではないですが、他宗を貶めるような発言を平気でするようになると例え正論が含まれていようが「自分の信仰に酔いしれた狂信的発言」でしかありません。
そういう方は財力と武力と地位があれば、過去の忌まわしい歴史のように宗教弾圧等を起こしかねないようにも思えてしまい少し怖いです。

一部の宗教・宗派では上にいる方であっても同様な他の宗教を貶める発言をするところもないわけではないです。
しかし、一般的な仏教僧や神道神職やキリスト教聖職者も立派な方は信仰が違うからと言って公に他者を貶めるような発言をすることは基本的にまずありません。
信仰の自由と言う大前提があるからでもありますが、貶めるのではなく穏やかに、かつ根気よく教義の素晴らしさを説く方が信頼されやすいのは当然ですので、普通はそうなさっています。

他宗教・宗派を貶めてみたところで大抵の場合は仲間内でしか共感は得られません。
場合によっては冷静な判断力も失われ、自分の発言を正しいものとするために教義を勝手に歪曲しだしたり、ただひたすら罵詈雑言を並べ立てることもあり、ややもすると同じ信仰を持つ方からさえも疎まれていたりします。

自分の信仰が正しいと思っているのであれば、決して他者を貶めることなく穏やかな気持ちで自分の信仰を大切にしていればいいのです。

私の個人的な考えでは、邪な新興宗教等でない限りはどの宗教も基本的には良いものであるはずと思っております。

posted by 未熟な修行者 at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記