いないという根拠

2016年10月02日

霊なんて信じない、神仏も信じない、という人がこんな事を言っておりました。
「蚊とかハエとかゴキブリとか殺すけど、そういう虫の霊は見た事無いだろ!!」
「牛や豚や鶏や魚だって毎日多くが殺されているのに、そんな霊はいないだろ!!」
「神や仏なんてのは想像の産物、神社やお寺に行ったって人生何も変わらないだろうが!!」
「科学的に証明されていないだろう!!」

実際の所、虫だと言い切れる霊を見た事がありません。
虫の場合には、死んだ瞬間に本当に只の死骸だけになる事が多いのです。

私が子供の頃には、面白半分に虫を残酷な方法で殺してしまう子供も多くいました。
殺さなくてもいい虫を殺している悪ガキも多く、私が見えてしまう時期に無闇に虫を殺している場に居合わせた事もありますが、呆気ないくらい何も感じないのですよね。

魚の場合も何故か虫に近いです。

何故なのかよく分かりませんが、もしかすると生きて次の世代に子孫を残す本能だけしか無いからなのかも知れません。

牛や豚、鶏の場合ですが、牛は霊のようなものを私も見た事はあります。豚は見た事ありません。
鶏ではありませんが、ペットとして飼われていたインコなら見た事があります。ですが悪意は感じませんでしたし、すぐに消え去りました。
ひょっとすると豚も鶏も私の住んでいる近くにはいないから見ないのかも知れません。牛のような霊も地方で見たことがあるだけですし。

犬や猫の霊は見えることもありますが、多分それらはペットだと思います。(首輪も見える時があるから)
おそらくですが、飼育されている、もしくは野良であっても人間に密接に関わっている動物なので執着があるからではないかと思います。

虫、魚、牛、豚、犬や猫も畜生道の生き物であるから、基本的にはすぐに転生しているのかもしれないですね。
それらの生き物であっても何か執着があれば霊としての存在で留まろうとするのかも知れません。
ですが、人間以外だとすぐ消えてしまうことが大半な気がします。


寺社仏閣に行っても何も変わらないと思うのは、最初からそういう気持ちで蓋をしてしまっているからです。
一説によると日本人は生活習慣などによって幼少期に神仏に対して恐れの心が潜在下に出来上がることが多いため、神仏を認めてしまう事で恐れが現実になるのを避けたがるのだそうです。
やましい事がある人は特に顕著で、恐れがあるから殊更声を上げて信じない強弁するそうです。
恐れを現実にすることを避けているので、本人は恐れによって強弁している事すら自覚しておりません。

神仏を信じないと言う人でも霊の存在は信じる人が意外と多いのは面白い点なのですが、神仏は神社仏閣にいるものと考え、自らが線を引いて近付くこともなく神仏を信じないことで恐れから遠ざかろうとします。
その一方で霊はそこらにおり、場合によっては避けようがないという認識の為、信じることで覚悟を決め恐れを和らげようとするのだそうです。


科学的に証明と言ったところで、科学的に証明されていないことなど世の中には山ほどあります、逆に証明されている事の方が少ないのが事実です。
この現象の理由はコレコレこういう事、故にこちらの現象の理由もコレコレこういう事で説明がつく、という現時点での推論でしかない事も非常に多くあるのです。
目に見えている地球上の事ですら、推論は出来ても解明されていない事が多いので、科学的に証明云々と言うこと自体に意味がありません。
そして科学で証明できていないものだからこそ余計に恐れ、声高に否定しようとするわけです。


霊なんて信じないと言われても、私は現実に見えてしまう時があるわけです。
だからと言って信じていない人に信じろと言うつもりはありません。見えないのであれば信じろと言ったところで難しい事ですから、言うつもりもありません。
霊も神仏も信じろとは言いませんし、信じないのならそれはそれでいい、としか思いません。
信じていない方の中にも人間的に素晴らしい方は大勢いらっしゃいますし。

ただですね、そんな必要もないのに無闇矢鱈と声高に否定する方は
「あ、怖いのかな、そんなにムキになって否定しなくてもいいのに」
と思ってしまいます。

posted by 未熟な修行者 at 01:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

信仰心と祈願

2016年09月29日

コメントで質問がありました。
とても個人的な内容でしたのでコメント公開の承認はしないまま、この記事を回答とさせて頂きます。

神社仏閣(と言うか神様仏様)にお参りして祈願する時、心から信じてお参りされていらっしゃいますか?
深い信仰とは言えないと言う方が大半でしょうし、別に信じてはいないと言う方もいらっしゃるでしょう。
過去記事にも何度か書きましたが、信仰が無いのは別に構わないと思います。

信仰が無いから願わないというならまだしも
「願いなんて叶った試しは無いから神仏は信じない」
と言う方も割といらっしゃいます。残念な事です。
願いを叶えて貰わなければ信仰しないと言う事で、宗教に対しての姿勢としては良くありません。
願いが叶わないから信じない、というのは喩えて言うなら
「入社したら一生懸命働くから先に生涯給与を全額くれ。くれないなら入社しない」
と言っているようなものです。これは誰がどう考えてもおかしな言い分だと思う筈です。

先に褒美をチラつかせて人心を従えさせようとするのは、悪魔や魔物などによる誘惑としている宗教が多いですし。


祈願する時には心から信じて祈願する方が良いのは当然ですが、それほど深い信仰心ではないけど、と言う方でも上記のような方よりは遥かに良い姿勢です。
人間ですから
「深く信仰している訳ではないから叶えて貰えないかも・・・」
と迷いや諦めの心が出ても不思議ではありません。
神仏は人間に迷いが多いことなど当然知っています。迷いの中にある少しの信仰心を慈しんでくれますので祈願してもまったく無駄と言う事はありません。

神仏を信じて叶えて貰えるよう祈願していても日頃の行ないが伴なっていない場合には無駄です。
正しく生きていない者はどんなに神仏を信仰していてもダメなのです。(それを信仰があると言えるかは別です)
ただ、必ずしも正しく生きられない者であっても、正しく生きようとしている者は救いがある場合もあるでしょう。


実際のところ、深い信仰を持っている人が祈願しても必ず叶うとは限りません。
深い信仰があっても、神仏は個人的なことだけでなく世界的宇宙的な視野で観て、長期的なスパンで物事を考えると言われておりますので願ってすぐ叶うとは限りません。
そろそろ叶えてやるかと神仏が思った時に、信仰心の欠片もなく悪い生き方をしていれば却下となるでしょうし、願いを叶えることが為にならない場合にも却下でしょう。
正しく生きる努力をし、願いが叶うよう自分でも出来る範囲の努力をする、だから何時か必ず叶えて貰える、と信じて祈願するのが正しいのです。

あと、蛇足ですが祈願すべきではない神社仏閣もたまにあります。
目安にしかなりませんが、寂れて荒れている所では神仏ではないものがいる事も多いので普通の方はあまり祈願はされない方が良いです。
また、実は人によって合わない神社仏閣と言うのが稀にあります。
ある程度の感覚が鋭い人でないと分からないかも知れませんが、神聖な感じがせず拒否されているような感覚がしたりします。別に障りがある事は無いと思いますが、祈願しても無駄かも知れません。

一番いいのは自分に合うと思える(気持ちがすっきり穏やかになれる)神社仏閣を見つけたら、そこに何度もお参りして根気良く祈願するのが良いです。

posted by 未熟な修行者 at 00:01 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

お彼岸です

2016年09月22日

個人的にはあまり意識しないので書き忘れておりました。(笑)
「お彼岸」でございます。

春分・秋分の日を中日(ちゅうにち)とし、前後3日を合わせた7日間を「お彼岸」と言います。
今日は既に中日ですが。(笑)

仏教では御先祖様のいらっしゃる世界である「極楽」を「彼岸」とも言います。その一方、私達が生きている現世を「此岸(しがん)」と言います。
「彼岸」は西に、「此岸」は東に位置すると考えられています。
春分の日と秋分の日は太陽が真東から昇って真西に沈むため、彼岸と此岸に通じやすい日と考えられ、この時期に先祖供養をするようになったのです。

お彼岸の期間の7日間は御先祖様に感謝をし、生きている人は六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を心がけ、正しき生きようと努力しましょう、と言う期間です。
「布施」は言葉通りの御布施や喜捨と考えてもいいのですが子供など家族に法施(仏法について教える)することも含まれます。
「持戒」は戒律を守りましょうと言う事ですが、守れないまでも守る努力はして、守れなかった場合は反省しましょうと言う事でもあります。
「忍辱」は怒ったりしないよう耐え忍びましょうと言う事。
「精進」は努力しましょうと言う事。
「禅定」は心を穏やかに安定させましょうと言う事。
「智慧」は悟りの事なのですが、上に書いた全てが成就できて初めて完成するとされています。勿論、悟れないまでも悟ろうと努力する事が必要と言う事です。

お彼岸の期間には御墓参りにも行きます。御仏壇があれば綺麗にして「おはぎ」などを供えるとなっています。秋は「おはぎ」で、春は「ぼたもち」を供えるとされています。
材料的には同じ物なのですが、秋は「萩の花」が咲くから「こしあん」「つぶあん」の「御萩(おはぎ)」、春は「牡丹の花」が咲くから「つぶあん」「こしあん」の「牡丹餅(ぼたもち)」だそうです。
(「こしあん」と「つぶあん」を逆に書いていました。修正後が一般的なようです。fさん、りんさん、御指摘頂きましてありがとうございます。 2016.9.23 0:24 修正)


お彼岸を私があまり意識しない理由は
「御先祖様に感謝し、正しく生きる努力はお彼岸の時期に限った事でなく普段から」
と考えているからです。

しかし、普段なかなか仏事を意識できない方には、大変宜しい習慣であるかと思います。
御墓参りに行ける方は是非行かれると良いでしょう。
御自宅に仏壇があれば手を合わせましょう。独り暮らしをされている、仏壇は実家にある、などで御仏壇のある家から離れていらっしゃる場合でも、心の中で御先祖様に感謝するだけでも良いのです。
そして、お彼岸の期間中はすべてを守れないまでも正しく生きようとほんの僅かでも努力をしてみるのが良いかと思われます。それが功徳となります。


ちなみに、この「お彼岸」ですが日本独自のものです。
他の仏教国にはありません。緯度と経度が違う他国では同じ日に太陽が真東から昇って真西に沈むとは限りませんので当然ですが。
また、「暑さ寒さも彼岸まで」と、彼岸を過ぎると暑さも寒さも和らぐと言われますが、今はなかなか当てはまりませんね。

posted by 未熟な修行者 at 10:10 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日記